お疲れ様です、2回生の齋藤です。

さっき知ったんですけど、ババンババンバンバンバンパイアなんですか?

ババンバンバンバンパイアだと思ってた、、

え、後者の方が語呂良くないですか?

いやそういう問題じゃないのはわかってるけど、ババンババン、、あ、ババンババンバンバンパイア!!!???

なるほど失礼しました。 




本題にはいります。 


突然ですが実存と実感、どちらか一方で生きることができるとしたら楽だと思いませんか?

でもどちらか一方で生きて楽だと感じるためには潜在的な部分を思考するのをやめることが前提になってくると思うんです。

それはつまり不自由ということ?

逆に実在と実感の間で生きるとすると思考することが必然になると思います。

つまり自由?

でもそれは常に不安や後悔を伴うのでは?

となると間で存在することが自由の代償で、受け入れることが自由の条件、、?

だとしたら自由の条件としての不安をどこまで受け入れられますか?

反対に不安を減らした社会は自由を失うと思いますか?

そんな社会でなにをもって生きたいと願いますか? 

両親恋人子供のため、、?とても外的ですね。

もっと内的な揺るがないものは、、?

というか生きたいってより、怖かったり痛かったりするのが嫌なのでは?

大学に入って授業受けて部活に入って朝練してバイトしてお金稼いで無理やり自分に義務を課すことで、まだ自分を見失わないようにする、、

自分が自分に課す義務や目標は、内的理由になり得ますか?

言葉の意味的にはなり得るかもしれません。

でも義務や目標のために果たしてそこまでのインセンティブが働きますか?

また自分に自分で義務を課して生きるということは実存に生きてると考えられませんか?

でもこれを実存と言い切ると今まで関わってきた人たちに失礼ではないですか?

義務を自己目的化して生きる方法は実存主義的な誠実な生き方と言えますか、、?



詳しいわけじゃないけど個人的に存在論って面白いと感じます。とくに実存主義と構造主義。

形而上学とかは面白い面白くない以前に私の頭じゃ理解できない、、

理解しようとする意識がだめって可能性あります?

感じろみたいな?

え、むず。


最後に、、

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」って言葉知ってますか?高校で倫理やってたら知ってると思うんですけど、この言葉をフランス語に直すとコギト・エルゴ・スム (Cogito, ergo sum) 

そうです、エルゴです!

暑いけど頑張りましょう!🫠