この世界には、どうにも避け難い大きな苦しみが二つあります。

 

一つ目は、生きていく苦しみです。

 

若く、美しく、健康で、財産に恵まれ、才能は豊かで、家族や友人に囲まれて、何不自由なく充実した毎日を過ごしている間は、生きていくことは楽しいことかもしれません。

 

そのような幸せな日々が、いつまでも変わらずに続いて欲しいと、誰もが願っていることでしょう。

 

けれど残念なことに、私達が願う幸せは、どれも長続きしません。

 

若く美しかった身体は、年を重ねるにつれ、シミ・シワ・タルミに覆われて、醜く衰えていきます。思いもよらない大病をすることもあれば、会社が倒産することもあるでしょう。どんなに優秀な頭脳も、その内に物忘れが多くなり、新しいことが覚えられなくなります。

 

そうして、いよいよ死んでいく時には、それまでの人生で手に入れた何もかもを手放して、大切な全ての人達と別れなければならないのです。

 

皮肉なことに、私達が願う幸せは、手に入れた時の喜びが大きければ大きいほど、手放す時の苦しみもまた、大きいのです。

 

何を手に入れたところで、私達が願う幸せは、常に苦しみと表裏一体です。

  

生きている以上、誰でも幸せになりたいと願うでしょう。それは、この世界が苦しみに満ちている証拠ではないでしょうか。苦難の連続が人生だから、どうにか幸せになりたいと願うのです。

 

けれど、永遠に続く幸せなど、どこにもありません。

 

いつかは手放すと分かっていても、私達は、幸せになりたいと願わずにはいられません。それはつまり、苦しみからも離れることができないということです。

 

お釈迦様がさとりをひらいた時、最初に説いて聞かせた教えは「人生は苦なり」です。生きていく苦しみを避けて通れる人など、一人もいないのです。

 

二つ目は、死んでいく苦しみです。

 

私達は、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに必死になっています。

 

目先の些細な成果を競い合って、勝ったとか負けたとか、得したとか損したとか、大騒ぎをしている間に年老いて、ある日、自分の足元に死という底なしの真っ暗闇が迫っていることを知って慌てふためくのです。

 

人は、必ず死ななければならない。

 

そんなことは、誰でも知っていることです。しかし、知識として知っているということと、まさに今、自分自身が死ななければならないということは、まったくの別物です。

 

医師から余命宣告をされた時、何も悲しまず、少しの動揺もせず、生きているのだから死ぬのは当然と、すんなりと自分自身の死を受け入れられる人がいるでしょうか。

 

生きている私達にとって、自分自身が死ぬということは人生の一大事であって、これよりも優先される問題は他にないでしょう。

 

それほど大事な問題であるにも関わらず、私達は、この問題と真剣に向き合うことをしません。

 

自分自身が死ぬという問題など、いくら考えてみたところで結論が出るはずがない。死んだらどうなるのか、そんなことは死んでみなければ分からない。そんな先のこと、不安に思うだけ損だと、問題を丸投げにしているのです。

 

そうして何も解決しないまま、ある日、自分の足元に死という底なしの真っ暗闇が迫っていることを知って慌てふためくのです。

 

そのような私達の生死の有り様を憐れに思い、全ての人を救い取りたいと願った仏がいます。

 

その仏の名を、阿弥陀(あみだ)(ぶつ)と言います。

 

お釈迦様が、自身の師匠であり、星の数ほどもいる仏方の先生であると紹介したのが、阿弥陀仏です。

 

親鸞聖人は、阿弥陀仏がいかに優れた仏であるか、その徳を讃える歌を、このように書き残しています。

 

【原文】

生死(しょうじ)()(かい)ほとりなし

(ひさ)しく(しず)める(われ)らをば

弥陀(みだ)()(ぜい)(ふね)のみぞ

()せて(かなら)(わた)しける

高僧(こうそう)和讃(わさん)

 

【意訳】

生死の世界は、苦しみばかりの海のように果てがない。この海に遠い過去より沈んでいる私達を、阿弥陀仏の願いの船だけが、乗せて必ず渡してくれる。

 

三世因果の道理中で、遠い過去から生まれては沈み、生まれては沈みを繰り返し、ようやく人に生まれることを得てもなお、生死の海で溺れている。

 

それが、私達です。

 

遠い過去から生死の海で溺れ死んできた身でありながら、そのような過去の苦しみはすっかり忘れてしまい、この一生でもまた、目先の楽しみを味わうことばかりに心を奪われて、生死の海へ沈んでいく。生きていく苦しみからも、死んでいく苦しみからも、助かる縁のない憐れな身の上。

 

それが、私達です。

 

そんな私達を、生死の海から救い上げてくれる船(弥陀弘誓の船)があるのだと、親鸞聖人は教えているのです。

 

親鸞聖人は様々な言葉にして、この船のことを褒め称えています。どれだけ言葉を尽くしても尽くし足りない。それほどに優れた船が、阿弥陀仏の願いの船なのです。

 

様々に誉め称えられた呼び名の中で、最も有名なものは、この呼び名でしょう。

 

大悲(だいひ)(がん)(せん

 

大悲とは、大きな慈悲(じひ)を略した言葉です。慈悲とは、(あわ)れんで(いつく)しむという意味です。

 

阿弥陀仏は、私達の生死の有り様を憐れに思い、大きな慈悲の心でもって、全ての人を救い取りたいという壮大な願いを起こしました。そして、その願いを実現させるための手段として、大きな船を作りました。

 

それが、大悲の願船です。

 

大悲の願船は、まさに今、生死の海で溺れている私達を生きていく苦しみから救い、安心・安全なデッキの上に乗せてくれます。

 

デッキに立って見下ろす海は、今まで溺れ苦しんでいたことが嘘のように、美しくきらめいています。


そのような優れた徳を持つ大悲の願船は、私達を乗せた後、どこへ向かって進んでいくのでしょうか。

 

いくら安心・安全なデッキの上にいても、行き先が不明なのでは不安で仕方ありません。

 

親鸞聖人は、大悲の願船の行き先を、このように教えています。

 

阿弥陀仏が住む苦しみの無い世界。極楽浄土まで、間違いなく私達を渡してくれる(乗せて必ず渡しける)船が、大悲の願船である。

 

死という底なしの真っ暗闇を明るく照らし、死後は間違いなく極楽浄土まで運んでくれる。そのように私達の行き先を極楽浄土と約束している船が、大悲の願船なのです。

 

私達を生きていく苦しみから救い、死んでいく苦しみからも救ってくれる、たった一つの救いが大悲の願船なのだから、この船に乗ることこそ全ての人に共通する人生の目的である。

 

親鸞聖人生涯の教えは、これ一つに尽きると言っていいでしょう。

 

そんな船が、本当にあるのか?

とても、信じられない。

仮に、そんな船があったとして、どうすれば乗ることができるのか?

 

大悲の願船と聞いて、それぞれの人の心に、それぞれの疑問が浮かんでいることと思います。

 

それらの疑問に答えるため、さらに話を進めていきたいと思います。