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このブログではわけあってがんのことをぽんと表現しています。
知と愛
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられている。
しかし余はこの二つの精神作用は決して別種のものではなく、本来同一の精神作用であると考える。
・・・・。
我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するの謂(いい:訳・意味)である。自他合一、その間一点の間隙なくしてはじめて真の愛情が起こるのである。
我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。
月を愛するのは月に一致するのである。
親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。
親が子となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂に感ぜられるのである。
我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。
親子夫婦の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛に進む。
仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。
斯(かく)の如く知と愛とは同一の精神作用である。
それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。
・・・・・。
我はわが友を知るが故にこれを愛するのである。
境遇をを同じうし思想趣味を同じうし、相理会するいよいよ深ければ深い程同情は益々濃(こまや)かになる訳である。
しかし愛は知の結果、知は愛の結果というように、この両作用を分けて考えては未だ愛と知の真相を得た者ではない。
知は愛、愛は知である。
・・・・・・・。
また我々が他人の喜憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直ちに自己に感じ、共に笑い共に泣く、このとき我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。
分析推論の知識は物の表面的知識であって実在その者を捕捉することはできぬ。
我々はただ愛によりてのみこれに達することができる。
愛は知の極点である。
以上『善の研究』より抜粋
※西田幾多郎は主観と客観、精神と物質などをいかに統一するかという哲学上の根本問題の解決を、直接に与えられた純粋経験に求め、そこから出発して知識・道徳・宗教の一切を基礎づけようとした。のちの西田哲学の出発点ともなった本書は、明治以後、日本人の手になる最初の哲学書といわれ、多くの人に迎えられて今日に及ぶ。(表紙より)
わたしはぽんになる前からぽんになってからも
ぽんのことだけではなく
いろいろなことが知りたいと思っている。
それは
自分を含めて世界中の人が
幸せだと思える毎日を送ってほしいからである。
まずは知ることでそれを実践し体感する・・・。
体感したこと、そしてそのとき感じたことは
そのときその条件下での真実だからである。
頭で知り、感じることは愛の一つの姿だと思っている。
たいしたことはできないかもしれないけれど
空から見守ってくれている父に教えてもらった
一隅を照らすひとでありたいと
残された時間の中で
その約束を少しでも果たしたいと思っているからである。
このブログを通しても
どこかで見てくださっている方々が
ほんの一瞬でもなにか笑顔になれるような瞬間があったら
望外の喜びである。
ここまで読んでくださってありがとうございました。![]()
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