もしあらゆる人間が完全であるならば・・・ | 心模様とガラス玉演戯(役立つ心理ポイント)

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交流分析やサイコドラマ・心理学について書いています。また、好きな本の引用など。

もしあらゆる人間が完全であるならば、その時すべては同等であり、各個人は任意な特別な人間によってとって代えられうるであろう。

しかしまさに各人が不完全であるということから各人の欠くべからざることや他人と変えられえないことが生ずるのである。なぜならば各人はなるほど完全ではないが、しかし彼独自の様式をもっているのである。各個人は完全ではなく一面的であるが、しかしそれによって独自なのである。(抜粋)


したがって人間の存在は、もし複合されて、より包括的な組織にまとめられようとするならば、必ず人間存在の尊厳性を失うのである。

このことをわれわれは最も明らかに大衆において見るのである。大衆そのものは何の意識も何の責任も持っていない。それは「実存」なきものでである。それにも関わらずそれが活動し、その意味において「現実的」であるとしても、それは決して自ら働くのではない。(抜粋)

(「死と愛」フランクル)

まず、「完全な人間」という存在はいないのです。そしているとすれば、他の「完全な人間」と変わりなくなり、「互換」可能になってしまう。全体主義とはそういったものだろうと思います。正しい思想、正しい主義をお互いに共有し正しい「完全な人間」の組織としての優越感。そして、正しい思想・主義ゆえに、僅かな差異を認めることができずに「内ゲバ」が起こり出す。

自分が不完全ということはありがたいことです。
まず、ミスをしないということがない。失敗があり得るのです。失敗しても自分を否定することはありません。失敗をを当然として、さらに努力することもできますし、当然のこととして受けとめることもできます。

自分が一面的であるという事実は、他の一面を見ている他者との分離があるということです。同じ一面を同じようにばかり見ている他者は、本当に他者なのでしょうか。自分の分身とばかりでは退屈してしまうでしょう。また、一面的であるそれぞれの人びとがいるからこぞ、自分が考えもつかないようなことが起こりえるのだと思います。そして、それに落ち込む必要はなく、自分も何らかの一面に置いて、社会に参加・貢献しているのです。芸術は芸術家だけ完結するのではなく、観賞する人の感動を必要とするのではないでしょうか。

けれども、「現実」はそういったことを無視して、人びとに接し、その不完全さの「ありがたみ」をないもののように扱います。

会社や部品のラインでは、「完全であること」をもとめられたり、「同一であること」を求められたりします。もし、私が何らかの社長であれば、社員に同じこと求めるでしょう。生産性、効率性、同一性は、経営者や消費者には大切なものです。つまり、そのことによって恩恵をうけるという現実は確かにあります。

現実の非人間的なことは不完全な存在たる人びとが、社会に繋がっていくという一つの手段でもあると思うのです。自分の不完全さを認め、また同時に同一の「大衆」ではない「自分」の存在を確かめる術であり、社会の不完全さや愛おしさを確認できる場なのではないでしょうか。