賢者は、自分がつねに愚者になりはてる寸前であることを肝に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやってく来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのである。そしてその努力にこそ英知があるのである。
これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましほど安閑としていられる理由がある。
(「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガゼット)
この本は、1930年に書かれ、その当時のヨーロッパを批判的に現しています。それは、高貴なものが失われ、すべてが平等であるかのように振る舞う人々「大衆」が出てきたことへの批判です。その意味で言えば、現在の私たちは、上記の文章では「愚者」に列せられるでしょう。そのため、オルテガを「貴族主義的」という批判もあるようです。
それはさておき、自分が賢者か愚者かはさておき、私は今までに犯罪に拠って掴まったことはありません。
でも、これまでを簡単に思い返しただけで、軽犯罪が幾つもあります。そして、今後、痴漢によって捕まらないとは限りません。
また、私はこれまで多くの人に会ってきました。悪意をもって接することはあまりなかったと思うのですが、「なかった」とは言えません。嫌いな人もいっぱいいました。「嫌う」とき、私が悪い場合もあったでしょうし、相手悪いこともあったでしょう。もちろん、心証としては多くの場合「相手が悪い」のですが。
善く、正しく、美しくありたいと思えば思うほど、そうではない自分が現れる。賢者にはなり得ず、愚者のままでいたいとは思わない。そんな感じです。
TVのワイドショーを見なくなって久しい。それは時間的な制約が理由が大部分なのですが、そうでない部分もあります。
司会者やコメンテーターと呼ばれる方達の「言葉のあり方」が嫌いだからです。かれらは、どんな話題や、どんな事件に対しても、「コメント」します。それが仕事だからです。では、かれらは何の「専門家」なのでしょうか。
ある事情や、ある出来事、ある分野についてどれほどの知識や経験があるのでしょうか。それなのに、いつも自分の意見が正しいかのように反応しているよように見えます。また、経済学が専門の教授が、他の専門のことに対して易々として口を突っ込む。まるで「自分はきわめて分別に富んだ人間」と言っているようです。
そうならないように、ブログが書けていればとは思います。
ブログの整理をしています。
テーマに「一般意味論」を追加しました。
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