我々は生かされています。


死にたくないと望んでも、寿命を迎える時が来る。


それがいつかは分かりません。


まだ生きたい・・・と望んでいても、お迎えが来ます。


これだけは、自分の意志ではどうしようもないです。


自分の意志を超えた意志が働いていると捉えます。


生かされているのですよね。


生きる・・・如何に生きるか・・・すべては、生かされているからこそ、生きられる。


生かして下さり、しかも、どのように生きるかの自由も与えて下さっています。


どのような死に顔を選ぶか・・・この自由も与えて下さっている。


寿命を迎えることだけは、宿命。


自分の意志を超えた意志の力。


神様助けて・・・とお願いすれば助けて下さる。


神様の助けを受け取るには、自分が波動を高くしておけば、いつでも受け取れる。


どのように生きようと、我々はいま生きています。


生かされています。


愛されている証。


必要とされている証。


人の中の神様を観て下さい。


人の苦しんでいる姿・・・それらをすべて背負った・・・それがキリストの十字架の姿と言われています。


このように捉えてみたならば・・・


人が苦しんでいる姿・・・そこにキリストが苦しんでいる姿・・・神様が苦しんでいる姿があるとも観えるでしょう。


自分の中の苦しみに目を向けてあげること、


自分の中の苦しみに触れてあげること、


自分の中にある神様に触れることにもなります。


苦しみに目を向け、触れてあげている自分の姿に、神性を観ます。


この自分の中にある神性に気づいてもらうために、キリストはすべての苦しみを背負い、あのような最後の姿を見せて下さった・・・このような神の愛の大きさを観ます。


優しさ・・・人を憂うと書きます。


憂う・・・心配する、悲しむ、不安になる・・・と辞書に書いてあります。


優しさとは、人の悲しみ、不安に触れること・・・自分事として捉えること・・・だと分かります。


人とは、自分以外の人と思うかもしれません。人には、自分も含まれます。


これが、優しさです。


優しさと、甘やかすことの違いです。


自分の中の苦しみに目を向けることは、神様に目を向けることにもなります。


自分の中の苦しみに気づき、触れてあげることが、最高の自分・・・内なる神に目覚めることにもなります。


苦しみに目を向け、触れてあげる姿そのものが、神そのもの・・・最高の自分・・であるのです。


「マザーテレサの真実」という書籍に書かれてある一文をご紹介します。


「私たちは貧しい国だけでなく世界中の国で、苦しみや悲しみを人々と分かち合えるでしょうか?。私は文明国の持つ貧しさはより深く、取り除くことが難しいような気がします」。


貧しさとは、こころの貧しさ・・・愛に飢えているという意味で使われています。


我々は、文明国の人間です。


我々のこころのより奥深くにあるのです・・・苦しみ、悲しみが。


自覚症状はなかなかないでしょう。


より深くにあるのですから。


静かなる時に身を置いたとき、気づけます。


こころも、身体も、頭も、静寂の時を迎えたとき、気づけます。


静かなる時・・・優しい時に、気づけます。


優しさとは、人の悲しみ、不安に触れること・・・自分事として捉えること