㊥ー岡山県(大正7年) 米騒動で襲撃された岡山精米所 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

1918年(大正7年)の米騒動は、戦後の物資不足と食糧高騰が引き金となり、日本全国に広がった民衆運動です。以下、その経緯と意義をまとめます。

1. 背景と原因

  • シベリア出兵に伴う投機的買い占め
    1918年初頭、政府がシベリア出兵用の軍糧として大量の米を買い集めるとの噂が広まり、米商人らが将来の高値を見越して在庫を買い占め、流通量を絞る動きに出ました。このため、米価は暴騰。主食である米が庶民に手が届かない事態となりました (kotobank.jp)。

  • 社会構造の変化
    都市化の進展や労働者・自由民衆の増加で、食の不安が即座に社会不安へとひろがりやすい土壌ができていました 。

2. 発端:富山県魚津の女房一揆

1918年7月23日、富山県魚津の漁村で、主婦たちが「米を県外へ出すな」「安売りせよ」と米屋や役場に押しかけたのが最初の動き。いったん警察によって散会させられたものの、地方紙が「越中女房一揆」と報じたことで全国に波及しました (meihaku.jp)。

3. 全国への拡大と展開

  • 拡大ペース:7月末から8月中旬にかけて、岡山・和歌山・愛媛・福島など各地で連鎖的に騒動が頻発。

  • ピーク時の規模:8月11~16日には、全国で400件以上の騒動が発生。名古屋では最大3万人近い群衆が米屋を襲い、軍隊による鎮圧も行われました (meihaku.jp)。

4. 政治的影響

  • 内閣の退陣:騒動の甚大さと政府対応のまずさが批判を呼び、寺内正毅内閣は同年9月末に退陣。これを契機に、初の本格的政党内閣として原敬内閣が成立しました (zh.wikipedia.org)。

  • 食糧政策の見直し:政府は食糧管理制度の強化や備蓄の拡充に着手し、国民の食糧安定を図る仕組みづくりを加速させました。

5. 意義とその後

1918年の米騒動は、「食糧問題がただの経済問題にとどまらず、政治を動かし得る」ことを示した初の大規模民衆運動でした。また、戦後の社会変革期における国民の声が直接政治に反映された例として、日本近代史の分岐点のひとつとされています。