19世紀の終わり。


電気はまだ、どこか信用できない存在だった。

 

光る。


熱を出す。


だが、気まぐれで、壊れやすく、理由が分からない。

 

それでも一人の男は、電気を信じていた。

 

彼は実験室に住んでいるような男だった。


夜も昼もなく、ガラスと金属に囲まれ、
「動いたかどうか」だけを見ていた。

 

理由はどうでもいい。


理屈は後でいい。


光れば成功、回れば正解。

 

失敗の数だけ、前に進めると本気で信じていた。

 

世界は彼を称賛した。


街に光が灯り、人々は歓声を上げた。

 

だが、彼自身は気づいていた。

――なぜ、そうなるのかは分からない。

 

同じ時代、別の場所に、もう一人の男がいた。

 

彼は静かな部屋で、ノートを広げるタイプだった。


現象を見る前に、関係を考える。

 

向き。


力。


流れ。

 

自然には必ず秩序がある。


偶然に見えるものも、理解できる形にできる。

 

彼にとって、
「説明できない成功」は、まだ成功ではなかった。

 

あるとき、彼は噂を聞く。

 

街を照らす、不思議な光。


内部が黒くなっていくガラス。


一方向にだけ起きる、奇妙な現象。

 

多くの人は、こう言った。

 

「そんなものだ」


「使えるのだから問題ない」

 

だが彼は違った。

 

――これは、偶然じゃない。


――電気は、片側にしか進まない瞬間がある。

 

彼は装置を作った。


光らない。


音もしない。


ただ、流れを選別するだけのもの。

 

周囲は首をかしげた。

 

「それで何が変わる?」


「派手じゃないな」

 

だが、その小さな装置は、
やがて“信号”を正しく選び、
雑音を消し、
遠くの声を届けることになる。

 

二人の男は、直接ぶつかることはほとんどなかった。

 

一人は、
「まず動かす」ことに人生をかけた。

 

もう一人は、
「なぜ動くか」を理解し、説明することに人生をかけた。

 

だが、彼らは同じ場所を見ていた。

 

電気を、人間が安心して使えるものにすること。

 

片方だけでは足りなかった。

 

動くだけでは、社会は怖くて使えない。


理屈だけでは、誰もついてこない。

 

試す人と、説明する人。


現場と、理論。

 

二つが重なったとき、
電気は「現象」から「文明」へ変わった。

 

やがて、理屈を愛した男は考える。

 

数式は忘れられる。


言葉も薄れていく。

 

だが、体で覚えた感覚は残る。

 

彼は、人に教えるために、
自分の手を使った。

 

三本の指を直角に広げ、
力と流れと向きを示した。

 

それは、


誰でも、どこでも、


間違えないための知恵だった。

 

今、私たちは当たり前のように電気を使っている。

 

スイッチを押せば点き、


コンセントに差せば動く。

 

そこにあるのは、


ひらめきと、


理屈と、


膨大な失敗と、


静かな理解の積み重ねだ。

 

……ここまで読んで、
勘のいい人は気づいたかもしれない。

 

この二人は、

 

光を世に広めた、あの「発明王」と、


電気に向きと秩序を与えた、あの「物理学者」。

 

つまり――


トーマス・エジソンと


ジョン・アンブローズ・フレミング

 

電気が、ただの技術ではなく、


文化として根づいた理由は、


この二人がいたからかもしれません。

 

 

 

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