相変わらずの、ポスト争い | 「アジアの放浪者」のブログ

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本題に入る前に。

昨日、一昨日と、タイ東部ラヨーン市とバンコク都のマンションで、大規模なPCR検査が実施されました。コロナに感染したエジプト軍兵士とスーダン大使の娘が周辺に入ったからですが、幸い、検査を受けた1,603人全員が陰性でした。タイはもう50日以上も国内での感染が確認されていませんが、私自身は、「ひょっとしたら感染者はいるけれど、無症状だからわからないだけではないか」と推測していました。しかしどうやら、それは私の考えすぎだったようです。

 

では、本題。

7月16日、タイ政府のウタマ財務相、ソンティラット・エネルギー相、スウィット高等教育・科学相、それにコープサク首相秘書官副長が辞任しました。1日前の15日には、この4人の盟友であるソムキット経済担当副首相も辞表を提出していますので、5人の閣僚・政府高官が一気にプラユット内閣を去ってしまったのです。

 

これは、内閣の内紛というよりも、最大与党「国民の力党」の主導権争いによるもの。

2014年に軍事クーデターで実権を握ったプラユット陸軍司令官(当時)ですが、軍政自体は国民の反発を受けていたものの、プラユット首相については、なぜか国民の支持が高いという不思議な状態にありました。察するに、無愛想で高圧的ながらも、私利私欲に走らない比較的潔癖な面と、強いリーダーシップによる治安の安定が評価され、「粗にして野だが、卑ではない」と感じた国民が多かったのではないでしょうか。

 

そこでまだ軍政下にあった2018年後半、民政移管後もプラユット氏に首相を続けてもらおうと、ウタマ前財務相らが奔走して設立した政党、それが国民の力党です。そしてそのウタマ氏らを支えてきた陰の立役者が、ソムキット副首相でした。

 

プラユット氏、ソムキット氏は国民の力党に参加しなかった一方で、ウタマ氏は党首に、ソンティラット氏は幹事長に就任します。しかし急ごしらえの政党であり、理念よりも「勝ち組について政権ポストをうかがう」という旧態依然の政治「屋」たちが多数入党したため、党内部は最初から結束力に欠けていたのです。

 

そして2019年3月24日に行われた総選挙。

国民の力党は、それでも反政府派の牙城であるタクシン派政党に惜敗。国民が期待している格差是正や、特権階層への批判に対し、しっかり対応してもらえるという確信を、国民が持てなかったからでしょう。そのため、国民の力党は、中小政党と連立を組み、タクシン派政党を抑えて政権を取ることができました。

 

実に際どかったわけですが、何とか政権を手中にした国民の力党。これでめでたしめでたしと終わったわけではありません。連立与党の数が多ければ多いほど、閣僚ポストも分かち合う必要があるからです。結果、国民の力党内では、「え、オレに閣僚ポストが回ってこないの? あれだけ子分を引き連れて入党したのに?」という恨み節がたくさん聞こえたのだとか。

 

その不満を抑え、党の分解を避けるために持ち出されたのが、「1年後の内閣改造で閣僚ポストを回すから、もう少し辛抱していてくれ」ということだったようです。でもこのコロナ騒ぎで、ウタマ党首とソンティラット幹事長は、「この国家的危機に対応するのが先だ。党内で政争をしている場合ではない」と、内閣改造時期の大幅な延期を画策。それにポスト待ち組とその派閥が一斉に反発した結果、党役員会が瓦解し、6月27日に総会が開かれて党首選挙を行うことになってしまいました。そして結果は、ウタマ党首とソンティラット幹事長は再選されず、ここに彼らの退場が決してしまったのです。そしてこの党総会の結果に失望し、ウタマ氏らと行動を共にすることを決めたのが、ソムキット副首相でした。

 

ウタマ氏らはもともと学者出身であり、政策には長けていても党内の勢力基盤は弱かった…。権力闘争に破れ、財務相を辞任せざるを得なかったわけですが、彼らがプラユット首相に辞表を提出した7月16日は、ウタマ氏らが閣僚に就任して丁度1年。つまり、最後の意思表示は、「約束は、守ったぞ」ということになります。

 

この政争。

プラユット首相には歓迎されていません。それはそうあるべきで、プラユット首相はこういう旧態依然のタイ政治を改革するために2014年にクーデターをおこし、それから5年間も軍政トップでいたのですから。昔通りというのなら、この5年はいったい何だったのだと思います。

 

下の写真は、辞任後の記者会見に臨んでいるウタマ氏(左からの2人目)ら。