レビ記、後半。

 17章、血を飲むな。血を食べる者は、命を絶たれる。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖い(あがない)の儀式をするためである。とある。大事なことなんだろうなあと思うのだが、ピンとこない。すべての生き物の命は、その血だからである。と、食べてはいけない理由も示された。
 大切な命、なにものにもかえられない命。命は血である、ということは、血は大切に大切に扱わなければならない、ということなのだろうか。血は、私にとっても、いろいろな思いのある「もの」である。つぎにレビ記を読むときに、さらなる理解ができるといいなあ、と思うのみだ。

 19章、聖なる者となれ。主の思いは、イスラエルの人々に、ただひたすら聖なる者となりなさい、ということ。その思いはとても強い。
 中でも、穀物の収穫時に刈り尽くしてはならない、貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない、という教えは、なんと優しい考え方だろうか。ミレーの落ち穂拾いの絵も、この神さまの優しいこころが描かれているのだろう。
 また、18節、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。新約聖書でイエスが言われたことばと同じことが書かれている!旧約のこんなにも古い時代に、主はこのことを教えておられたのだ、というのは大きな発見だった。
 33節、寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。‥‥自分自身のように愛しなさい。なぜならあなたたちもエジプトの国においては寄留者であったから。転校や引越しを繰り返した私としては、主がこのことに言及してくださったことがありがたいし注目したい。そして、エジプトでイスラエル人がそうであったように、私が引越し先でそうであったように、幾多の苦労があったことを思い起こし、寄留者に優しく接するようにしなくちゃならない。

 25章、安息の年とヨベルの年。土地を休ませるための安息の年。50年ごとのヨベルの年には、失った土地を再び手に入れるチャンスがある。どちらも、利口な考え方である。
 23節。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。土地は神からいただいたもの、たまたま今、ここに住ませてもらっていて、所有権も持っていたりもするが、また返却するもの。寄留者、滞在者という気持ちを持っていたいなあと思う。芭蕉の、月日は百代の過客にして行きかふ時もまた旅人なり、みたいな感じだろうか。

 献げ物の約束事についての記述が多いが、ほかに23章では、主の祝祭日の規定、26章は偶像崇拝の禁止など、いろんな細則が書かれている。
 レビ記全体を読んで、本当にこれだけ細かいことを主が話されたのだろうか。そして、こんなに膨大な内容をモーセは、ばっちり理解し、覚えて、アロンやその子たちに伝えることができたのだろうか、という気がしてしまう。
 主は、モーセにひたすら話しかけておられるが、主とモーセは本当に近い関係だったのだなあと思う。なにしろ主がモーセを選ばれたのだから当たり前かもしれないが、このころの主は、本当にそばにいて、いろんなことを教えてくださったのだなと思う。