昼から日曜礼拝というものに行ってきました。懇意にしているプロテスタントの教会です。


 パキスタンからの牧師さんが来ておられて、メッセージを母協会の牧師さんが翻訳されます。


 聖書の「創世記」を取り上げて、そこで、アダムがエヴァに言われて知識の実を食べてしまい、それで自分が裸である、ということに気がつき、神様がエデンにやってきたときに、神様が呼んでいるのに隠れてでてこない。

そのときに、

「どこにいるのか?」

と問う、神様の言葉を我々に当てはめてのメッセージでした。


 食べてはいけないものを食べてしまった罪、というのがあります。しかし、アダムは初めから裸であったのであって、服を着ていたわけではないのだから、それを恥ずかしいことだという認識に至ったからといって、隠れるのは不自然です。要は、罪の意識が神様を遠ざけたのだ・・・ということになるでしょうか。

 牧師先生は、神様が呼ばれたとき、アダムが隠れることなく出てきて、罪をちゃんと告白すればエデンから追放されることはなかったろうと言っていました。事の真相はともかく、我々は作られた価値観に縛られます。それが、人との間に壁を造り、宇宙との間にも壁を作る。遠ざかるのは自分自身ということなのでしょう。

 モーセの十戒というのがあります。

 あれは、人に「罪と言うものはこういうものだ」と教えるものである、と聴いたことがあります。

 仏教にも「戒律」というものが存在します。

 それがあるということは、人はそういうことをやっていた、ということになりますね。殺していたから、殺すな、と戒められるわけであり、犯せばそれは「罪」と呼ばれます。

 先日、京都の恩師のところにお邪魔した際の話で、六師外道と呼ばれるのものや、大乗仏教にせよ、鎌倉の新仏教にせよ、我々が普段思っているように「どちらが正しい?」というような論争が目的で起こっているのではなくて、世相が古い教えでは対応できない時代になってきたから、新しくする必要性があって生まれてくる、というのがありました。

 モーセの十戒も、イエスが出現するころには、時代に対応できなくなっているということで、パリサイ派とか、律法学者というものは、「律法至上主義者」であって、民衆や時代のこととは遠く離れた考え方で、だからイエスの登場で、彼らは恐れることになります。

 殺すな、と言われていたのに、殺してしまった人はどうなるのか?あるいは、罪なくして生きていけない世相がやってきたときに、では人の心はどうすればいいのか??という問題があります。律法学者は人の罪を断罪はしても、救いはしないということが起きるわけですね。

だから、イエスの教えは、悔い改めと許しなのでしょう。

 仏教にも、とくに中国や日本で「末法思想」というのがあって、深刻な悪世が来て大変なことになる、というやつです。そんな時代では、修行者の生活は出来ません。

 実際、アレキサンダー大王が、ギリシャからインドまで攻め込んできたりして、世界は混沌とする時代を迎えます。戦乱の巷にあって、その日生きるのが精一杯の生活で、聖典に書かれているような理想的な生活なんてできっこない。

 だから、アミターバ(阿弥陀)の作ったという、別の銀河系の星、スカーヴァティー(安楽、あるいは極楽)というところへ生まれ変わろうというのが、浄土教なんです。その星は、生きるための生活すべてが悟るための修行になるという理想郷なんですね。



 大乗仏教の大事な徳目に「六波羅蜜」というのがあります。六つのパーラミター、すなわち6つの完成と呼ばれるものです。


布施

忍辱

自戒

精進

禅定

智慧


の六つです。


 これはある先生が言っていたことですが、「盗むな」ということは、一般には、「相手のものを盗るな」というものであって、消極的なものである、ということらしいです。

 そうではなくて、積極的に「与えよ」というのが「布施」であって、戒律を守っているだけではなくて、もっとアクティブな形で戒を行うなら、六波羅蜜のようになる、ということのようです。


「盗む」という面を超えて、「与える」というこの発想は、連続して考えると意味が深い。大乗仏教でいう、布施とは、100万円持っていたら10万円を布施する、ということではなくて、100万円まるまるを布施する、という極端なものです。


これは大学の講義で、先生が言っていたが、お金を与えることで、その人に痛みなく名声を得るのであれば、それは「布施」ではない、という話がありました。早い話が、持てるものが売名行為を行った、という解釈ですね。


そこまで厳しいことは我々には到底できることではないけれど、我々は、どこに立っているでしょうか?


 アメリカはCO²の削減に積極的ではない。自動車産業の影響力が強いからです。しかしそれは、人類の未来にかかわることであります。だから、アメリカの姿勢は、子供達の未来はどうでもいいのだ、俺たち(権力者)が大事なのさ、ということなのでしょう。


 あなたは、愛する人にたいして、どこにいるのでしょう?

 「愛する」という言葉を吐きながら、搾取する側でしょうか?

 「騙された」という哀しい人という名の、与えた側でしょうか?


六波羅蜜に「忍辱」(忍耐)があるのは、ちゃんと意味があります。


 仏教では、この世界のことを「娑婆」といいます。娑婆世界ですが、これは、サンスクリット語では「サーハ」と呼ばれていて、「忍土」という意味だそうです。音写で「娑婆」になったわけですが、耐える事の多い世界、ということです。


 生老病死という四苦があります。そのうちで、「病」だけは、人間の努力である程度軽減できます。


 私の仕事は、そういう意味では、大きな仕事であるかもしれません。しかし、社会的な地位や収入はたいしたことはありません。

 自分はどこにいたかったのか?

 自問自答は死ぬまで続くのでしょう。



 自分だけよければいい・・・という考え方が、人間を支配します。

 それは、その人が一人で生きていけるからという傲慢から起こります。でも、不完全な我々はいつも躓きます。


 誰かを恋しいと思い、日々を耐えられないと思い、誰にも相手にされなくて死んでしまおうと思ったり。


我々は一人でこの世にあるわけではありません。



あなたはどこにいますか?