さて、(1)では、フィロンの話にあった「叡智は他のものを知解しても、自分自身を掴む事はできない。」と言ったことを取り上げました。
(2)ではしかし、唯識学派の考え方を紹介して「知識の内部に認識されるのの形が、あたかも外部にあるかのようにあらわれるが、その形が認識の対象である。」という考え方を紹介しました。
そして、(2)において、灯火は闇を照らし、また、灯火自身をも照らすことから、知識をこれになぞらえているということも書きました。
唯識学派、というのは、前にも書きましたがインドの大乗仏教の1学派でありますが、紀元後5世紀には現れてきている考え方です(原型はもっと古いですが)。
彼らは外界の対象というものの存在を否定しました。そして、過去からの業が認識の汚れのようになって、煩悩を起こしたり、あたかも外界が存在している、と言う風に思い込むのだ・・・というようなことを言いました。ぶっちゃけ、映画「マトリックス」の世界です。
しかし、実のところ他の学派も紹介されていて、「認識と超越<唯識>」(角川文庫)には、続けてこのようにあります。
「天秤量の一方の皿にのせた分銅は、他方の皿にのせた物体の重さを量るはたらきをする。しかし、分銅の正確な重さを知るためには、それを他の分銅によって量らなければならない。分銅の重さは分銅それ自体によっては知られない。すなわち、分銅は他のものの重さを明らかにはするが、自己自身の重さを明らかにはしないのである。知識を灯火よりもむしろ分銅と同じ性質のものと考える学派もある。」
こうなると、(1)のフィロンの考え方と同じですね。不可知論とでもいいましょうか、自らを知るためには他者が必要である、という感じでしょうか。
経量部というインドの小乗仏教の学派は、外界の実在論を唱えますが、それは正確には認識されないという立場を取ります。これも、結果的には不可知論とでもいえましょう。人間が認識した瞬間には、もうそれは過去の映像になっているわけであるので、正確な姿を知ることはできない・・という感じです。ですが、この学派は外界実在論の立場を取る点で、唯識と一線を画します。
(1)で、アダムが自分以外のものに名前を付けた、という話がありました。しかしながら、アダムはアダムであって、アダムではないので、主体者として存在する場合、名前は必要ないでしょう。
たとえば、無人島に流されたとして、そこで一生を過ごした場合、たった一人きりならば、名前などあって無きが如し。究極的には、対象の名前すら必要ないでしょう。
フィロンや経量部の連中、あるいは分銅の話は、どちらかといえば、客観の世界の話なんですね。自分以外の誰か、あるいは何かの存在を仮定しての話。
そして言葉の世界のバーチャルリアリティーにいるわけです。
(2)の最後で、灯火が闇を照らすならば、照らされる灯火にも闇がなければならなくなる・・というような話を載せました。しかし、唯識の発想なら、灯火が主体者なので、おそらく「闇」そのものが存在しないのではないでしょうか。
知識が灯火で、闇を照らすと言う場合、その世界は「灯火によって照らされた世界」なので、闇の世界は存在しないわけです。
これは、言葉で考えるよりも、脳内で絵的に考えてもらうほうが理解しやすいかもしれませんが![]()
分銅は自らの重さを知る必要はありません。自らの重さより、重いか軽いか、それだけを判定するでしょう。それとて、本当に必要とするのは、「外部の存在」なのですから、外界の対象なんて存在しない、という立場の唯識学派ならば、「他の分銅」そのものがナンセンスな話なのではないかなあと。
本当にその人を愛するならば、他人の批評はどうでもよいわけですよね?
外見や経歴、収入なんかを考えて付き合うのは、その人の人間性を見ていないというだけで、それで相手を愛せると言うのならば、そういうのもありでしょう。
しかし、自己判断ではなく、「価値基準を他人の価値に置いている」ようなものは、どうでしょう?
たとえば、「みんながかっこいいというから、付き合う。」とか、「こういう恋愛が流行っている」とか、そういうものは、どうなんでしょう?分銅の話はそういうのと同じように思えます。
学歴とか肩書きにしか評価基準を置けなくなっている現代日本の姿とダブるようですね(苦笑)。
お釈迦さんは、縁起を説きました。すべてのものは相係わり合いながら存在するという状態である、なんてことですが、そうやって分解していくと何が残るか・・・という話で、それは正直わかりません。
しかし、その分からないものは自分を成り立たせているわけですから、すべて自分に備わっているわけです。そういうものがあるということを「認識する」というものが、じつはすべてなんだよ、と唯識は言うわけです。
「我思う。ゆえに我あり」
というヤツですね。
主体性の回復・・・という表現がいいかなとは思いますが。
たとえば、馬鹿げた恋でも、傍から見て恋でなくても、その人が「恋をしている」と思う限りは、その人にとっては恋なわけで、それはその間は恋ですが、「違ったかなあ」という時点で、恋ではなくなる。
客観の世界を想定すると「なぜ、わかってくれない!」というジレンマが生まれます。
もともと、主観の世界であるから、違ってあたりまえ。
本当の世界のありようは、違う世界観、あるいは多様性を認めるということが必要なんだろうと思います。
それを無理やり押し付けあう行為の極限が「戦争」なんだろうなあと![]()
ちょっと、ややこしくなりました(汗)。
続きがあるかはわかりませんが、今日はここまで(爆)。