これまでの話は、ブログテーマの「認識と世界の関係」の中に(1)がありますので、それを読んでからのほうが分かりやすいと思われます。できれば「意識と認識と身体」シリーズも読んでみてください。
角川文庫から出ている、「認識と超越<唯識>」(服部正明 上山春平)という本に、こんなことが書いてあります。
「こうして『唯識二十論』においても、『認識の対象の考察』においても、外界実在論はことごとく否定される。それでは何が認識の対象と認められるべきであろうか。それは知識の中にある形象にほかならない、という唯識説がここに示されるのである。ディグナーガは『認識の対象の考察』の中で述べる。―
「知識の内部に認識されるものの形があたかも外界のものであるかのようにあらわれるが、その形が認識の対象である」
認識の対象が知識の内部にある形象ということは、知識が知識自体を認識するということにほかならない。知識は自己認識を本質とするというのが、唯識学派の基本説の一つである。
暗闇の部屋に灯火を点ずれば、それまで見えなかった壁・天井や机・椅子などの対象が照らし出される。それと同時にわれわれは灯火自体をも見ることができる。灯火は対象を照らし出すと同時に、自己自身をも照らし出すのである。知識にはこの灯火と同様の性質がある、と唯識学派は言う。」
さて、ここでは前回の「叡智は、他のものを知解しても、自分自身を掴むことができない」といったフィロンの話と一致しません。
唯識学派によれば、知識は知識自体を認識する、ということですが、これは現代でいうと「ホログラム理論」に近いように思われます(といってもあいまいな知識ですが)。
ホログラムというのは、脳内で外界の映像を立体的に組み立てて認識している・・・・というような説であったと記憶していますが、ある人によれば、それは人間が外界を「脳内で再構築している」ということで、それを認識と呼ぶならば、人間の脳内には外界を組み上げるだけの能力があるということになります。
犬を見ているとして、それは光を犬の物質が反射してその粒子を脳が図形として認識している、というのがなんとなく普通に理解している感じであると思いますけど、それは裏を返せば、人間の脳内には外界を構成しているのと同じだけの物質があることになるのではないか・・・・・ということですね。
ここまでいくと、さきほどの唯識学派の発想と同じなわけです。
昔、解離性障害の知人が薬物に依存しておりまして、よく幻覚を見ていました。われわれにとっては、幻覚ですが、その人にとっては幻ではないわけです。
唯識の説明に使われるものに、飛蚊症といって、眼にチラチラと虫のようなものが見える病気があります。それは、病気ではない人にとっては、存在しませんが、見える人にとっては、たとえそれが「病気だ」ということを言われてわかっても消えるわけではありません。眼医者によって治療され、チラチラするものが消えて初めて、その人にとっては「存在しないもの」となったわけです。
そこまで行くと、われわれの世界は、われわれが脳内で作り出した世界・・・という話もあながち荒唐無稽な話とは言えないということです。
昨日までなんてことなかった人が、急に魅力的に見えて恋に落ちる・・・ということがあります。
外見でも急激に変化するのならわかりますが、さした変化もないのに、魅力的に見えてくることがあるます。今ではフェロモンなんていいますが、どちらにせよ、魅力的に見させているものが自分の中に働いている、ということは言えるでしょう。もし対象がわれわれに魅力的だと思わせる働きをしているのなら、見た人すべての人がその人に恋してしまわないといけませんが、そんなことになりません。
ですから、自己啓発セミナーのようなところで言われる言葉が成功の秘訣のように言われるのは、その人の意識が変わると世界が変わる・・・ということになって、言い換えれば世界の再生が起きるからでしょう。
しかし、大乗仏教の思想、「空の思想」を説く中観派は、こんな風に言います。
唯識は
灯火は闇を照らし、自身をも照らすという。
ということは、闇を照らすものが灯火だとするのなら、照らされる灯火自身にも「闇」がないとおかしくなる。
さてさて、この話はどこで落ち着くのでしょうかねえ(汗)。