ひたすら続きです(汗)。

 初めての方は、アーカイブの「認識と世界の関係」より、前回までの話を読んでからここを見ていただけるとよろしいかと。そうでないと、さっぱりなんのことやら・・・・・と思います。


 我々が考えているような実体のある世界ではない、「空(く)」という、夢幻のようなものが、我々の世界なのだ、ということを、前回に書きました。


 ナーガールジュナ(龍樹)の著作などを読んでおりますと、異教徒であるとかが反論するわけです。そのような夢幻のようなものが、現実の我々にどうやって作用を及ぼすというのだ、夢で切られたからといって、目が覚めれば切られていないではないか・・・とか言う感じにです。


 夢精の例を前回あげましたけれども、この異教徒の反論者であるとかが陥っている間違いは、何もナーガールジュナは、我々が「現実」だとは言っていないんですね。彼は「我々も空なる存在なのだ。」とちゃんと言っているわけです。

 空性(自ずから備わった性質などない)ということは、我々にも言えることで、一人の女性が、子供にとっては母と呼ばれ、夫にとっては妻と呼ばれ、姑からは嫁と呼ばれる。日本で美人ではあっても、海外ではそのように思われないということは、往々にしてありますね。

 そして、夢であっても切られたからといって、なんとも無い夢を見ることだってあります。崖から飛び降りた夢を見たら、身体が飛び跳ねた、という経験をした人もいるでしょう。

 ではどうして我々は、現実と夢の世界がたいした違いはない、という思考にならず、現実と夢の区別をし、そこに執着するのか・・・・ということであります。

 これは前にも書きましたけど、ナーガールジュナの指摘に寄れば、それは「実在とは無関係な虚構に過ぎない『言葉』」に基づいているということなのです。

 「土」と言えば、その言葉の対象である「土」があると人間は思い込みます。「壷」といえば、壷があるように思い込んでいます。しかし、壷があるのならば、あるいは土があるのならば、壷は壷からしか生まれないことになります。土から壷が生まれるためには、自性のない「空」でなければならないわけです。

 少し、偉大な佛教学者であった梶山雄一先生の著作に書かれていることを引用してみます。

「人間の判断はしばしば誤る。海岸で拾い上げた銀片は一瞬後には貝殻に訂正される。謝った知覚と確実な知覚とを区別する基準は、じつは、ある場所にいあわせた大多数の人々の判断が一致しているとき、それを確実といい、それとは違ったただ一人か二人の認識を誤謬(ごびゅう)だとすることだけである。しかし、多くの人が同じように、これは貝殻だと判断していたとしても、ひとりひとりの知覚の内容がじつはそれぞれが異なっている。そこにいあわあせた犬にとって、においをもたない貝殻などはまったく存在しないであろう。してみれば、認識の確実性といわれるものは、たかだか、貝殻ということばの一致に過ぎない。しかし、そこにある対象を貝殻とするのはあくまでも人間の効用の世界、ことばの世界において正しいだけであって、対象自体は、自分は貝殻だ、と思っているわけではない。このように、人間の効用、人間のことばの中で理解することがはたして客観的に確実な認識であり、そこから生じてくる感情や行為が正しいものなのであろうか。

 ナーガールジュナはことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だといっているのである。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直感の世界へ逆行することだ、と教えているのである。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。」

(梶山雄一著「空の論理<中観>」より)





 たとえば、私が見ているものを、「○だ」と言って、同じものを見ている人に「どうみえる?」と聴き「○だね。」という答えが返ってきたとしても、実は相手に見えているのは、私とっての「△」かもしれないわけです。。それは、誰にもわからないことですね。


 もっと、医学的に言えば、我々は肉体を持つ人間であります。

 外界のことを知るために五感があるわけですが、それは神経組織を介して、脳が理解しているに過ぎません。外界の姿をそのまま捉えているわけではないんです。


 犬は、嗅覚において人間をはるかに凌駕します。それ一点をとっても、我々人間が正しく世界を捉えているなどといえないことはお分かりかと思います。


 私がある女性の肌に触れたとして、「すべすべしている。」と感じても、それは神経伝達された情報でしかないわけであって、その女性の肌が本当に「すべすべ」しているかは不確実なわけです。

 だからこそ、色盲であるとか色弱であるとか、あるいは、切断されて無くなったはずの足が痛む、
といったことが起きるわけですね。


 客観などというものが、いかにいい加減なものであるか、ということで、そしてそれらは我々人間の錯覚だということです。


 ですから、ナーガールジュナは、直感の世界に帰れ、といいました。言葉を離れた寂静の世界へと。仏陀はときおり沈黙します。その沈黙によって答える、という逆説を行うことがありますが、それにはこういう背景もあったりするんです。


 ただ、空なるものに、なぜ我々が執着を起こし、倒錯した世界を現実世界だと思い込むのか?ということをナーガールジュナは詳細にはいいません。彼は静かに世界の有様を、言葉と概念を破壊することで示しただけです。


 いいかえれば、それは「相対性」の世界だということに似ているかもしれません。


 アインシュタインが、相対性理論を簡単に説明するために使った話として、不正確ですが、

「恋人の膝枕で寝ている1時間と、仕事しているときの1時間とは、同じ1時間でも時間の長さが違うでしょう?相対性ということはそういうことです。」といったらしいのですが、時間や空間ですら歪むとした、相対性理論からもわかるように、我々の世界と言うのは、「絶対の世界」ではないということなのですね。


 そして、その「空なる世界」になぜ我々は執着を起こすのか?なぜ、コップが灰皿になるのか?他人が見ると不細工な人が、自分が見ると美しいと思うのか・・・・そういった疑問を考えてそれらを修行しながら、悟りの方向へと結び付けていく学派が登場します。


 ヨーガチャーラー・ビジュニャーニャ・バーダという長ったらしい名前で呼ばれますが、漢訳ですと「瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)」と呼ばれ、これも長いので、通称「唯識(ゆいしき)」と呼ばれる学派がこれにあたります。


 ヨーガチャーラーとは、ヨガ行をする人たちのことですが、彼らは特にヨガを重要視しながら、外界は意識の表層作用でしかないのだ、といいました。ですから「ただ、識のみ」ということで「唯識」と呼ばれるわけです。

 面白いことに、彼らは「空」という言葉を使いません。


 変わりに「アーラヤ識」という言葉を使います。セイント星矢のバルゴのシャカがそんなこと言っておりましたね(笑)。その「アーラヤ識」です。


 是こそが、輪廻する主体であり、また、我々が世界を誤解する根源である・・・・というわけですね。


 意識の一つでありますが、正確には「記憶の蔵」のようなものであるといわれます。


次回はなぜ、唯識の連中がこのようにいうのか、ということを書いてみたいと思います。