続きです。これまでの話の流れは、アーカイブの「認識と世界の関係」をはじめに読んでくださいね。それを前提に進めていますので。
さて、こんな長ったらしい記事を、どれくらいの人が楽しみにしてくれているのかわかりませんが、コメントを一人でも付けてくれる限りは、最後まで続けて見たいと思います(笑)。
前回までに、インド仏教における「説一切有部(せついっさいうぶ)」という学派と、物理学のニュートン力学の究極概念といわれた「ラプラスの魔」との類似点や、その持っている視点について述べ、それをひっくり返す動きとして、大乗仏教の「空(くう)の思想」を提唱した「中観(ちゅうがん)派」と呼ばれる学派の考え方を少し述べました。
「空(くう)の思想」とは、「自ずから備わった性質がないこと」だといいましたが、それは、コップというものを喩に使って説明しましたね?
で、チンピラさんのコメントに「色即是空」という文字ありました。有名な「般若心経」の一説です。
「色は即ち是れ空なり」というのがその意味です。
「色」というのは「色情」という意味に取られやすいですが、そうではなくて、インドの言語「サンスクリット語」では「ルーパ」といい、「物質」のことです。
ですから「物質は即ち、自性がないのである」ということですね。
そしてその後、これが重要なのですが「空即是色」と帰ってきますね?
コップはコップとしての自性がない・・・・という段階で止ってしまうと、悪人を救うために殺しても良い、なんていう、某カルト教団の思想になってしまうわけで、そうではなく、その自性のないものが、また、コップである・・・というわけですね。
視点で言うと、宇宙的視点から見れば、コップではないけれど、我々人間の認識では、それは「コップ」と呼ばれる・・・ということです。
同じことは、漫画「エースをねらえ!」で、岡が宗方とお寺で座禅しているようなシーンに、
「山は山にあらず、人、これ山と言う」
という「金剛般若経」の一節が使われております。
そして、この中観派の連中は、「すべてのものは空」である、というわけです。ニヒリズムのように思われがちですが、決してそうではありません。もっと積極的な思想であったりします(後述しますが)。
彼らの論法で行けば、神様も仏陀も空の存在です。
しかし、そうなると、そんな夢幻のような存在がどうやって我々を救うというのか・・・・という疑問が当然出てきますね。
ですが、この論法で行くと、いろいろわかるんです。
たとえば、非常に信心深い信者さんがいても、その人に奇跡が施されたり、あるいはすべての信心深い人が幸せな人生を送れるとは限りません。
逆に、非常に不信心、あるいは無信仰、あるいは悪人であっても、奇跡が施されるということが起きて、コロッと変わってしまう場合があります。
キリスト教なんかでは、パウロがその典型です。
そうなると、信仰心というものを基準にした善行では、説明がつかないわけです。善因善果、ではないということですね。
それは、神様や仏陀が「空」なるものである・・・・とすれば理解できます。必ずしも、信心深いということが、「空」でる神様や仏陀をして、その人を幸せにしない、ということだからです。なぜなら、コップがコップではなく、灰皿や花瓶に転換してしまうのと同じなのですから。
ですから、中観派の連中というのは、すべてのものを「空」と知って、その執着を離れよ、というわけです。中観派の「空」によって、煩悩と悟りの間の壁は取り払われ、「煩悩即菩提(煩悩はそのまま悟りになる)」という言葉は、彼らの思想をベースにしております。それは、煩悩も、悟りも「空」というものを共有する存在だからなのですね。
中観派の中の過激な人は、神殿に忍び込んで、神像がというものがただの「空」なるものであることを証明するためにその目玉をくりぬいた、という話も残っています。
子供を救いたいと願う母の心は、「煩悩」あるいは「執着」と呼ばれますが、それは僧院に篭って「悟りを得たい」と執着する出家者の思いと同じものです。しかし、その出家者の思いは小乗仏教では「菩提心」と呼ばれ尊ばれます。ですか、一心に思いつめ、救済を求めるその心にいったいなんの違いがあるというのでしょう。
中観派は、だから、「煩悩即菩提」といいます。コップを灰皿にするようなものです。しかし、コップらしいものを見ると、我々はそれが灰皿であるとは思いません。説一切有部などは、その思い込みで区別していくわけです。しかし、中観派の思想でいくならば、説一切有部の矛盾点があからさまにわかるわけです。
大学生のころ、恩師や梶山雄一先生の著作を読んでいて、こういうことまでは私は理解していたつもりでした。そして、あるとき、友人の女性と論争になって、「神様なんてのは、こういう空なる存在なんだよ。」と説明しますと、
「じゃあ、なんでそんな夢幻みたいなものが私達を救ってくれるというのよ。仏陀も必要ないし、神様も必要ないじゃない。それなら、私は神様がいると信じたいし、なによりも仏教は辛気臭いから嫌い。」
みたいな猛烈な反駁に合い、答えることができませんでした(汗)
で、そのことを、当時卒論を見てもらっていた恩師に相談したわけです。ちょうど夜に恩師の家にお邪魔して勉強会をやっている時期で、その休憩時間というのは、大半が時計の話か、こういう雑談でありました。そのときの雑談がどれほど勉強になったか。
相談したところ、恩師が答えてこういいました。
「簡単やろ。たとえばコップに灰を落とせば灰皿なわけやろ?では、空なるものをコップにしようと思えば、水を入れて飲めばいい。灰皿にしたければ、煙草の灰を落とせばいい。神様にしたければ、そういう『作用』を我々が空なのもに与えれば、それは神様として出現するさ。」
目からうろことはこのことです。
酒によって電信柱と話している酔っ払いを見ると、酔っていない我々は「何を馬鹿なことしているんだろう?」と思うわけです。しかし、当人は本当に話しているわけで、酒に酔うということをきっかけに、その人が電信柱を「話し相手」にする作用を与えているわけで、そうでない我々にこの現象を理解できるはずがないのです。
「般舟三昧経」という経典がありますが、そこにはこんな話があります。
ある街にいるという美しい遊女の話を聴いた男が、その女性に恋焦がれる話が出てきます。彼はその遊女にあったこともありませんし、姿もしりませんが、ともかく恋をしてしまうわけです。ですが会いにいける距離では到底無く、思いだけが募っていきます。
そうすると、ある夜に夢の中で、その女性に出会い、彼はSEXする夢を見るわけです。そして夢精が起こります。
夢幻の存在が、現実世界の我々にちゃんと作用を及ぼしているのです。
夢のお告げを聴いたといって、観音像を作ったりする人がいます。傍から見れば馬鹿げてはいますが、当人は本気でありますし、何より、夢のお告げが、像として具現化してしまうわけです。
コップを灰皿にするのに「作用」を与える、と書きました。「空なるもの」を灰皿にするには、我々が煙草の灰をそこに落とし、それを「灰皿」と認識すれば、それはそこに出現します。
自分が素敵だと確信している彼氏を、友達の女性に紹介したら「えー、どこがいいの?」といわれたことが有る人もいると思います。
それは、あなたが彼に「素敵」という作用を与えることによって、あなただけに「素敵な彼氏」と映るわけで、彼氏が素敵という自性を持っていないということであります。ですから、友人の女性には「素敵に映らない」わけです。その作用を「恋」と我々は呼んでいますね。そして、作用を与えていない友人に対しては「好みが違うのね」という風に判断します。
その「作用」を与えるということは、実をいうと人間の意識の作用のことなんですね。
中観派は「自性がない」ことを説きました。それによって、「空」ということにより、有と無の連続が理解され、それは断絶したものではなく、状態でしかない、ということであったわけです。説一切有部が、区別して、分けてしまった世界観ではなく、本来はすべて「空」という全一の世界なのだといったわけです。
ですが、これだけでは、仏陀や神様がいなくてもよくなってしまいます(笑)。
そして、それら「空」の思想を前提として、では、どうしてその「空なるもの」に我々は執着を起こすのか?ということを考え、それを解明していこうとする連中が出てきます。
次回はその辺りを述べて行きますね。