精神エネルギーというものが、どういうものであるのか?
なんて考えたりしませんか??
科学的、ということが言われますが、じつは意識であるとか、生命というのものは、科学で解明されたわけではありませんので、そのわからないものが「科学的」と言っておるという、笑うに笑えない現実が人間にはあったりします。
手技療法のブログで、なんで量子論であるとか、佛教であるとか、重力がどうのとか、出るかといえば人間そのものが「複合体」であるからで、心と身体は不可分な領域だということです。
量子論の話を少ししたときに、温度計での測定の話をしましたね?
お湯の温度を測ろうとして、温度計をお湯にいれても、それは「温度計が差し込まれたことによって、変化してしまった温度」しかわからない、という話ですが、これは、認識するものが、認識される対象に影響を与えてしまうから、特にミクロの世界においては、人間はおおよそのことしかわからない、ということでした。
原子論というものがあります。
物質を極限まで分解して、これ以上分割できない・・・・という最小の単位を「原子」として昔の人は設定しました。この考えはギリシャ哲学にもありますし、インド仏教にも当然存在します。
原子というのは、眼に見えないものであります。
インド仏教において、これを主張していたのは「説一切有部」(サルヴァスティバーダ、あるいはサルヴァスティバーディン)と呼ばれる学派の連中ですが、「すべてのものは存在すると説く学派」といえばわかりやすいかもしれません。小乗仏教と呼ばれるものの代表的な学派です。
その主張に対して、他の、とくに大乗仏教と呼ばれた学派の連中の主張が、これまた面白いのですが、
「そんな眼に見えない原子がいくつ集まったといったところで、眼に見えないものが、どうして見えるようになると説明できるのか?」
と、これまた鋭い攻撃をしているわけですね。
そうすると、こんな答え方をする連中が出てきます![]()
「室内に、見えない埃が舞っていても、なかなかわからないが、窓から射す太陽光線の光が当たる部分だけ、見えるときがある。それと同じようなものだ。」
そもそも、「見えないもの」が「見えるようになる」という言葉が矛盾するわけですが、現実にこういう現象を見た人も多いと思います。
インドにおいて「有」という状態は、有り続けることを意味するので、変化しないことなんですが、それはありえないことは我々は十分に知っています。知っているのに、「有る」という感覚を持っています。
たとえば、焚き火の「火」は眼に見えていますが、火が有るとするならば、火が消えたときにもどこかにあらねばなりません。しかし、それは、薪が無くなる、であるとか、水をかけられてである、とかの条件によって消えただけで、どこかに行ったわけでも、どこかにあるわけでもありませんね?
ですから「火が有る」とはいえないのですが、では「無い」か、というと、「有ったものがあって、初めて無かった」といえるのですから、有ることもいえないのに、無いこともいえないわけです。
一つ例を挙げましょう![]()
有名な「だまし絵」ですが、人によっては、老婆にみえたり、若い女性に見えたりします。
なぜ、こんな現象が起きるのでしょう?
チンピラさんとmimikaさんのブログ、
★伊藤三巳華の恐怖新聞★ さん
なんか読んでいると面白いのですが、除霊だのなんだの、というときに、お決まりのお経であるとか「呪文」は使ってないんですね(記事にないだけかもしれませんがw)。
もし、呪文に力があるのなら、誰が唱えても効力を持ちますが、そうでないことは明らかです。そして、唱えなくても効力を発揮する人がいる以上、呪文は媒体でしかないということがわかります。
私が見て、「美人な人だなあ。」と思っても、友人にとっては「不細工な人だな。」ということはあります。たぶん、その女性が猫でも飼っているのなら、その猫にとって彼女は「美人でも不細工でもない」人でしょう。いや、人ですらないのかもしれません。
さて、読んでいてわけがわからなくなってきたと思いますので、今回はここまで(笑)。
病気とは、「病んだ気」と書きます![]()
一応、最終的な到達点はそこですので、面倒でもお付き合いくださるとありがたいです![]()
はじめて来た方は「なんじゃ、このブログ?」と思われるかもしれませんねえ(爆)。
まあ、「もう一人のあなた」に対するアプローチの一環ですので、ええ![]()
興味を持たれた方は、
をごらんになって、『ウィル』へ来てくださいな。
また、こんな話して欲しいとか、ちょっとうちで講演してくれんかね?とかの要望もあれば考えますので。
ではでは。
