自分がこの世界に入った、13年ほど前からの付き合いである、とあるエネルギー療法家の先輩がいる。もともと同じところに勉強にいって、お互いに酷い目にあい(笑)、そこである人に出会って、お互いの道を進んでいって以来の人である。

 

 その先輩の日記に、こんなことが書かれてありました。

 ある超能力者の先生のところにお邪魔したときに、そこに3歳くらいの子供の男の子が、家族と一緒に来ていて、手ほどきを受けていたそうです。彼は難しい病気を抱えていたそうです。


 ところが、大人二人にこの子は一人手ほどきを受けていたそうですが、あまりの緊張にガチガチになっていたようです。家族の見守る中、一人、この超能力の先生の手ほどきを3歳の子供が受けるのですから、当たり前といえば当たり前でしょう。

 しかし、この先輩が見たところ、誰もそれに気がついていない。何も話そうとしない。

 それに耐え切れなくなった先輩が、その子供に「機関車トーマスは好きか?」と話しかけ、彼は半笑いで「好きじゃない」と答え、そこから少し和んだそうです。


 先輩が言いたかったことは、「魂だ」の「神様」だの「愛の力」などとその超能力者たちはやたら使うのに、そこには「魂」も「神様」も「愛の力」も感じられなかったということでした。

 そして、「あるのは自分たちの能力の高さを明かしたい「欲」だけだった。」と言い切っています。


 さすが先輩だなあと思いました。この人の目線にはこういう温かさがいつもあります。


 ある先生の、我々の世界に対する戒めの言葉に、「テクニックに患者を合わせるのではない。患者にテクニックを合わせるのだ。」というのがあります。自分がしたいことは、自慢なのか?それとも、困っている人を助けたいということなのか?


 最近の日本は、残念ならが、欧米主義的システム化が進んだのはよいとしても、その悪い面が多いような気がします。能力がなければ職場でもすぐに首を切られたりします。しかし、その能力とはなんでしょう?営業成績だけが能力であるならば、組織なんて必要ないでしょう。人を育てることを忘れて使い捨ての多くなった日本の社会構造が、この先、どういうことになるかは、火を見るよりも明らかでしょう。

 格差社会は何も政治だけの問題ではないのです。


 自分は4年半ほど、じつは事情があって居酒屋の雇われ店長をしていたことがあります。チェーンの居酒屋でしたが、そこの店長研修で、塾長が我々に問いかけた言葉があります。

「最高のサービスとはなんでしょう?」


 じつはこれと似たような質問を、大学入試の面接で質問されたことがありました。受けた学科は社会福祉でしたが、面接官は佛教学の先生でした(のちに、佛教学科に合格したので、先生のことがわかったのです)。そのときの面接で問われた言葉があります。

「あなたにとって優しさとはなんですか?」


 この「優しさとは?」と問われて、当時面接されていた我々は、「相手のして欲しいことをする。」であるとか、「丁寧に接する」とか、そういう漠然とした答え方しか出来ませんでした。

 同じように、「最高のサービスとは?」と問われて、他の店長候補と挙げられた答えは「お客様の注文を察する。」であるとか、「元気よく迎える。」とか、「誘導を丁寧に」とか、そんなことばかりでした。


 そのとき、塾長が我々に仰った言葉をじつは今も座右の銘にしています。その言葉とは、


「相手の話を聴き、そして、その相手の存在を認めてあげること。」


でありました。当時、私にとって、これほど衝撃的な言葉はありませんでした。

 物理的に、何かを相手にすることだけがサービスじゃないという、この話は、今も鮮明に覚えています。


 マザーテレサだったと思いますが、愛の対義語、あるいは、愛にもっとも遠いのは「無関心」だといいました。


 「存在の耐えられない孤独」という言葉もあります。

なぜ、お年寄りは病院に集うのでしょう?どうして我々はインターネットで交流しようとするのでしょう?


 戦後の貧しい時期、無関心と助け合いは混在していました。地域は助け合い、そこからこぼれたものは、落ちてゆくしかない時期がありました。それは、社会が貧困で、それ以上の力がなかったからです。

 今は豊かになり、お金さえあれば、助け合わなくてもやっていける時代になりました。そして、「無関心」が台頭し、それと同時に、匿名による「誹謗中傷」や、見えないところでの「いじめ」が横行するようになりました。


 しかし、もはや日本の財政は逼迫し、少子化がそれに追い討ちをかけるでしょう。そのときに我々は今までのように、国家の財政を当てにできなくなる時期が来ると思われます。


 そのときに、我々が出来ることはなんでしょうか?

愛にお金はかかりません。死にゆく人の手を握ってやり、今際の際の言葉を聴いてあげ、死を見取るという行為が、延命処置に劣るとは私は思いません。


 ここで何回も取り上げている、BJパーマーはこう言っています。

「私が持っている唯一与えられるものは愛である。」と。

そして、

「私は決して、他の方法や外部に答えを見つけようとしない。内にある偉大な力に頼っている。」

とも言っています(塩川満章D.C著「臨床カイロプラクティック 哲学・科学・芸術」ルネッサンスジャパン」より)。


 無関心になるのは、我々が不完全で弱い存在だ、ということを忘れてしまう「無知」から起こります。そして、それが自分以外の存在も同じであるということを忘れさせてしまうのです。

 匿名で誹謗中傷する人は、自分が弱い存在であることを知るからこそ匿名を使うのにもかかわらず、それが同じように弱い相手を傷つけるということにまで、気がついていません。

 いじめをする人も同じこと。多数で一人をいじめるという行為は、私の田舎や育った環境では「卑怯者」と呼ばれたものです。


 「恥」も「誇り」も忘れ、「愛」すらない国に未来などあろうはずはありません。


しかし、今はそれを取り戻せる時期に来ていると思っています。


暗闇にこそ蝋燭は輝くのですから。


 バカバカしいことかもしれませんが、たとえ今はそれが少数の思いや考えや行動でも、時代が必要とすれば、世に出ます。


 BJパーマーが、クレイ・トムソン(ベッドがガチャンと落ちる、カイロ用のベッドの開発者)に、晩年に送った手紙には、

「忘れないで欲しい。正しい者はたとえ一人であろうとも、間違った100万の少数派よりも一人の多数派である、と。」

というような言葉を贈っています。




左がBJパーマー。右がトムソン先生。BJが晩年のころ。

写真は上記の「臨床カイロプラクティック 哲学・科学・芸術」よりいただきました。

興味のある方(といっても、同業者でしょうがw)はどうぞ。



そして、BJはこうも言っています。


「暗闇を嘆くより、蝋燭に火を灯したほうがましだ。」



我々に出来ることはまだまだあります。

人間は生きている限り、やれることがあるのです。

そして、あなたの中のもう一人のあなたも、死ぬまで働き続けています。


諦めることなく、我々もできることをやっていきましょう。


では、まだ見ぬあなたと『ウィル』で語り合える日を楽しみしています。



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