陰と陽という考え方が東洋医学にはあります。易経なんかそうですが。


 日本ではよく二元論のように思われますが、これらはすべて一元に回帰するものですから、もとは一つのものが、二つの現れ方をしている、ということですね。


 男と女も、この陰(女性)と陽(男性)に喩えられたりします。東洋医学の経絡にもこれはあり、古代の叡智といえるでしょうか。


 翻って、DNAの螺旋構造はというと、これまた2重螺旋です。そう、男女であり、陰と陽に置き換えてもいいでしょう。決して交わらない二つの線がDNAとして一つになっている。ですから、人間は男と女の二種類がいるということを端的に表していると思うのです。それを繋いでいるものを「愛」と呼んでもよいかなと個人的には思っています。





 螺旋構造ということは、人間の身体も螺旋構造だろうということです。ですから、本質的に、人間は「左右非対称」な生き物で、そう考えると、手技療法などでよく言われる「足の長さが違う」というのは、当たり前のことであったりするのです。よく女性ならば「左右の乳房の大きさが違う」とか言われると思いますが、もともと螺旋構造であるDNAが人間を形作っているのなら、そうだろうと思うわけです。

 ですから、右足が短いから、骨盤がどうこう・・・・というのは、歪んでいるからか、元からかということを考えないといけないわけです。でも、まあ、自分のような左右非対称の考え方の人のほうが少ないのですが(笑)。


じつは植物も、この螺旋構造の影響は受けていて、詩人のゲーテが発見していますが、植物の葉の付き方が、螺旋構造を描いていることが報告されています。ミクロがマクロに影響を及ぼしているよい例でしょう。



 陰と陽に対比して、「阿吽」(あうん)というのが言われたりしますね。「あ」と「うん」(正確には「ん」でしょうか?)です。神社の門とかにある仁王像もこのタイプでいわれたりもします。

 源流はどこか?ということは聴いたことはないのですが、この「阿吽」というのは、五十音のはじめにある「あ」と、最後に来る「ん」で、言葉そのものを宇宙に見立てて、それで「阿吽」で現しているんじゅないかと。始まりと終わりで宇宙。キリスト教ならば、「アルファでありオメガである」というやつです。


 自分が知っている限りで一番古いこの手のものは、インド哲学です。

 ウパニシャットだったとは思いますが、インドの言葉、サンスクリット語の語順で、一番初めに来る「a」と中間に来る「u」と、最後に来る「m」(の下に・が付いているもの)で、宇宙を表す言葉として使われます。彼らは言葉そのものが宇宙である、という思想なので、こんな表現になるのですね。

で、「a」と「u」と「m(下に・)」をつなげると「アウム(あるいは、アウン)」となり、aとuは引っ付いてオーという発音になるので、「オーム」とか「オーン」になるわけです。どこかの教団みたいに「オウム」ではありません。

 真言密教なんかの教典で「おんころころ」とか、そんな「おん」の発音があるのは、これです。大乗仏教のインドの経典や哲学書でも、はじめにこの言葉を持ってきて、仏陀に帰依し奉るとしていたりします。


 どちらにせよ、それらはすべて「宇宙」を表すことばとして使用されます。


 インドのバラモン教では、全一なる宇宙「ブラフマン(梵)」と、人間の中にある小宇宙「アートマン(我)」を想定して、それらが本来的に一つであること(梵我一如といいますが)を直感的な閃きによって悟り、輪廻から解脱することを目的にしていました。

 キリスト教の異端、グノーシスも同じようなもので、人間の中にある、神的なものが穢れた肉体の中に閉じ込められているので、それをグノーシス(認識)することによって、本源に帰ろうとするものです。

 あるいは、佛教でもタターガタガルバ(如来蔵)といって、人間には仏陀になれる本質を内包しているという思想もあります。

 カイロプラクティックでは、BJパーマーがこれを「ユニバーサルインテリジェンス(宇宙的知能)」と「イネイトインテリジェンス(先天的知能)」として提唱しました。

 カイロはそのユニバーサルとイネイトのつながり、あるいは、イネイトの働きを妨げる「サブラクセーション」を取り除くために背骨の矯正をするのだとしました。


 陰と陽だけでは、二元論です。英語のイエスかノーか、と同じで、かならず「反対者」を作り出してしまう構造を生みます。しかし、それは全一の世界からそういう現れ方をしているだけである、というのが、宇宙的な思考だと思うのです。ただ、人間が宇宙的思考でとどまってしまうと、人を殺してもなんとも思わない唯物論者になってしまうので、やはり、陰と陽は一元であり、一元はまた陰と陽である、という風に還ってこないといけません。


 イエスかノーかではなく、日本語にある「どっちでもいいよ。」とか「どちらでもないよ」というあいまいさ、これが本質的な世界ではないかと。釈迦さんは「中道」といいました。


 人の身体を治すのにはいろんな方法があるし、それで構わないと思いますが、それは宇宙の本源と結ばれているか、そしてそこからちゃんと分化したものか、という考えを持っていないと、生命をもてあそぶだけのもになってしまうでしょう。


 自然治癒力を最大限に引き出す、とか、書いている人を見かけます。最大限とはどういうことでしょうか?では最小限はどんな状態なのでしょうか?私はその人の最大の自然治癒力の数字は知りませんので比較できません。

 

 「もう一人のあなた」はいつも全力かもしれないのです。どちらかといえば、冤罪のようなときが多いでしょう。本質的には「もう一人のあなた」には罪はないのですから。


私はただ、ご本人の弁護人のようなもの、あるいは翻訳者のようなものが、施術者だと思っています。「もう一人のあなた」に聞き届けられれば、病気の人は許されて健康になります。聞き届けられないほど、罪が深ければ、もはや私にはどうすることもできませんので、私より能力の高い弁護人に引き渡すしかないでしょう。それでも駄目なときだってあります。





科学新聞社より出版されている、「もうひとりのあなた」という本です。

興味があれば読んでみてください。



 その罪とは、本質的な世界から逸脱してしまっていることを知らない「無知」であります。佛教では「無明」なんていいますけれども。キリスト教では「原罪」になるでしょうか。

 慈悲を「優しさ」と書いている施術者の方がいました。「優しさ」であるならば、なぜ「慈しみ」のあとに「悲しみ」という言葉がついているのでしょう?


 古代の日本では「愛」といことを「かなしい」と読んだそうです。

 キリスト教の「理性の愛」は、本当に好きでなくても、好きであるかのように振舞う、ということで、そうすることによって、本当に相手を愛していくことを指します。


 悲しみがある慈しみとは何でしょう?すくなくとも、理性の愛もそうですが、そこには忍耐が要求されるのだと思います。ただ「好き」であるとか「優しい」だけなら「陰」だけとか「陽」だけの世界でしょう。

 もう一人のあなたも、そうやって耐えています。現代人が、知らずに毎日行う不摂生にも黙々と耐えて、限界まで働いています。ですから、身体の痛みは、この「もう一人のあなた」の流す慈しみ涙でしょう。痛みがなければ人は苦しまないかもしれませんが、おそらく死滅していたでしょう。


 なんだか、宗教臭い話になってしまいましたが、人間の考え付く世界というものは、今も昔も、そして場所や人種に関係なく、頂点は同じであるということが言いたかったのです。

 本質的に、陰であり陽であり、そしてそれは一元であるという、それです。

 人の身体も同じことです。


 人間が誕生する前から、この星は宇宙の法則で動いてきました。しかし、人間はいつの頃からか、自分たちが作り上げた概念の世界に埋没して、今ではもう、何がなんだかわからなくなっています。


 そろそろ、そうやって、本質の世界に帰る時が来ているのではないかなと、日々思います。