物理学は、光を「波」であるか「粒」であるかの論争を繰り広げて発展してきた。その時代時代で、波が優勢であったり粒が優勢であったりしたが、量子論において、光は「波でもあり粒でもある」という見解がなされている。波の実験をすれば波として、粒の実験をすれば粒として光は捉えられる。どちらが正しいわけではなく、どちらかが間違っているわけでもない。


 この「光」は「質量のないエネルギー」とも言うそうである。質量のない、という意味では、我々の意識、あるいは思考といったものも、同じ「質量のないエネルギー」と考えてもおかしくはあるまい。

これだけ精神医学が発達したといわれる現代において、精神疾患の患者が蔓延しているのは、人の意識、あるいは思考と、精神という、質量のないエネルギーを薬物でコントロールするというアプローチに、何かしら問題があることを提示しているように思えてならない。人体をバラバラにしてみたところで、肝臓や腎臓のように、どこかに人間の精神があるわけではないのだから。


 古代、インドで大乗佛教が起こったときに、その大乗経典群では、「空(くう)」という思想が繰り返し述べられるようになる。般若心経でも有名な「色即是空」「空即是色」の「空」である。日本では「色即是空」の「色」は、なぜか「好色」の「色」と勘違いされることが多いようであるが、インドでは「色」とは「ルーパ」、すなわち「形・物質」を表す。そして「空」とは「自性のない」ということを示す。

どういうことかと言うと、コップがコップという自性を持つなら、永遠にコップのままであらねばならないのに、そこに水を入れて花を挿せば花瓶に変わり、煙草の灰を落とせば灰皿になってしまう。だからこそ「自性」は無く、「空」であると言われる。それが「色即是空」(色は即ちこれ空)である。しかし、その自性のないものが、これまた「物質」でもあるのがこの世界の有様であるから、「空即是色」と反対のことが述べられる。


 人間の精神というもの、あるいは生命力というものは、自性が無い。わかりやすく言えば実体は無く、夢幻のようなものである。しかし、身体を成長させ、傷を癒し、老化や病という状態を出現させる母体として、生命力は存在し、また、実体の無い精神力は、絵画や音楽といった芸芸術を産み出したり、もっとわかりやすくいうと、「物をつかむ」あるいは「笑う」「悲しむ」といったことは、この精神の成せることなのである。男性の夢精などは、その典型であろう。大乗経典などを見れば、「質量のないエネルギー」というものを、古代の人々がちゃんと認識していたことがわかる。


 自然界は、4つの力に分類されている。「重力」「電磁力」「強い相互作用」「弱い相互作用」である。「強い」とか「弱い」というのは、「電磁力」に対して、というy意味合いであるらしい。

 この地球という惑星に住む我々にとって、この中でもっとも強力に作用しているのが「重力」であろう。程度の差こそあれ、地球に住む限りこの影響を受けている。しかるに、この「重力」というものを、施術基準に取り込んでいるものは意外に少ないように見える。たしかに「重力」そのものは目に見えるものではないが、それは風と同じように他を介して認識される類のものである。風は時に人を涼やかにし、時には木をなぎ倒し、家を壊す。同じように「重力」も正しく人体が反応できる限りは、人を助けるエネルギーとなる。しかし、正しい反応ができない状態(重力線からの逸脱等)が起きれば、「重力」はかえってマイナスに働いている。


 私は、手技療法で重力線を利用して施術していたが、寡聞にも、光線や電気といったジャンルで、この重力線を使って施術している療法家を知らない。手技療法家でもそんなに多くが利用しているわけではないようである。東洋医学の経絡にも同じことは言えて、この経絡の異常を、重力線から説明できないか?ということを研究していた人たちを知っている。それは非常に興味深い研究であった。内臓エネルギーの異常を経絡の異常から読み取ることと合わせて、かなり有意義な分析法であった。

 経絡も目には見えない「質量の無いエネルギー」である。それだからこそ、重力線でその分析が行える可能性があると考えるのも、面白いのではないだろうか。


 ある若い大学生を施術したときに、肝臓エネルギーの異常を体が示していることがあって、そのことをこの男性に伝えると、たしかに病院の検査に引っかかっているのだ、ということであった。少なくともこういう事例はたくさんある。猫背の人に、消化器系の問題を抱えている人が多いのも、このことと無関係ではない。


 あくまでも、ここに述べたことは、基本的に「未病」といわれる段階においての話である。医療機器の検査に引っかからないこともあることは、明記しておきたい。