平和を願う | 気持ちいい人生創造のコツ

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本音を言えば、戦争のことなんて考えたくない。

なぜなら、暗く悲しく辛くやるせなくなり、お腹が痛くなるから。

しかし、唯一の被爆国、軍隊や原子爆弾を(堂々とは)もっていない、

多宗教入り乱れても内戦にならない稀有な島国日本に生まれて生きている1人として、

日本人だからこそできることもあるのかもしれないと考えている。

8月6日という特別な日に忘備録を。

 

私がカナダ留学した時に感じた戦争に関わることを二つ。

 

一つは、カナダでは戦争で戦ってくれた先祖を誇りに思い、感謝していることを表せる日があることが羨ましかったこと。

この期間には、カナダ人は赤いポピーの花のピンバッチをコートにさし、

みんなで愛国心や敬意を表す。

軍服を着たおじいちゃん達が、ビール片手に、当時の話に花を咲かせていた。

学校では、自分の親戚に戦争についてのインタビューが宿題に出て、

子供が一生懸命自分でまとめて掲示していた。

戦争讃歌ではなく、ただ、国のために命をはってくれた事実に感謝し、

惜しくも落とした命に祈りを捧げていることが羨ましかった。

日本では同じことをしたら、「お隣」から何を言われるかわからない。

ただ、私たちの祖先が日本の未来のために戦ってくれたことは事実で、そのために命を落としているのも、生活を犠牲にしていたのも、事実。こんなに小さな島国が、「日本」のままでいられたことへの感謝は、表したい。祈りを捧げたい。愛国心を表す時がスポーツの時以外にあってもいいじゃんか。それをされない、過去の努力者は、すっかり拗ねてしまっているだろう。後ろめたい忘れたい気持ちだけが残って、それゆえに子孫へあまり語られなかったのでは?と、報われない慰められない戦争体験者に思いを馳せた。

 

もう一つは、「お隣」の声だけが大きく、黙ったままだとその大きい声だけが真実とされてしまうのだということ。

「なぜ、日本は中国や韓国に謝らないの?」「同じ大陸の人種なのに、日本と中国は仲が悪いんだろう?」などと言われるたびに、ものすごいギャップを感じていた。また、拙い英語でなんとか説明を試みると、知らなかったよ〜と言われることが多かった。日本には、「語らずとも!」「沈黙は金」という美学や習慣があるけど、やっぱり言わなければ伝わらない。言わない=何も考えてない、と思われてしまうみたいだ。言うにしても大きい声を出さないと聞こえない。しかも、このあたりの事情に関しては学校でも扱う義務になっていないので、これからも理解してない日本人は増えるばかりだろうな。対して「お隣」は国策としてガンガン勉強して攻撃体制万全でいる。海外で、日本人として英語でこのあたりの事情を説明できないと、言われっぱなしでとてもとても悔しい思いをするし、劣等感や罪悪感にさいなまれてしまう気がするな。

ちなみに、日本はとっくの昔に国家予算レベルの謝罪金を渡して謝っているので、そこは引け目に感じる必要はないと思う。

 

過去にやられたこと、を言い合って不幸自慢していてはキリがないなと思う。

どこまで遡るか、どこまで引っ張るか、決まりがあるわけではないので

しつこい方の勝ちみたいな現状がとても嫌だ。

勝ち残っている国が、ずっとクリーンでなんかいられたわけがない!

最後の戦争のことだけ取り上げて、その負けた国だけを汚い国、愚かな国とするのは全くフェアじゃない。

日本の国内でだって、北海道・沖縄・広島・長崎と本島の間にはそれぞれ悲しい歴史があると言うのに。まだ戦国時代の「藩」意識から抜け出せていない人だって多いと言うのに。

植民地支配を受けてないとされる「日本」だって、戦争でぶっつり途切れてしまった文化・慣習がどれほどあったか。どんだけ日本人の尊厳をなくし、腑抜けにする教育をせざるを得なくなったか。原爆の被害で、代々受け継がれてしまう病気や疾患に苦しまされたか。

クソ〜〜〜。腹立ってきた。

でも、

それでも、

ぐっとこらえて現在と未来に目を向けたい。

なぜなら反対する力は、それを応援する力にもなってしまうから。

物理の法則と同じく押す力と押し返す力は同じ強さをもつ。

つまり、「戦争反対」ではなく「平和万歳」と唱える方がいいパワーが出るのだそうだ。

自分たちと、自分たちの愛しい子供が幸せに生きるために、他国にたかる以外にもっとできることはないのか??

 

アメリカに留学していた時に、スーパーバイザー(見てる人)として日本語のクラスに入った時に、学生がとってもいいことに気がついていた。

 

「アメリカは、パールハーバー奇襲についてしかアピールしない。

 日本は、広島・長崎の原爆についてしかアピールしない。

 両国とも、やられたことだけ言って、やったことを正当化する

 のはおかしいと思う。」

 

日本でもこのような高い視点からの、

自分の意見を堂々と表現できる学生が育つような教育環境を整えてあげたい!

と思ったのだった。

そのために、まず自分がそんな人でありたい。