75年頃の憂歌団 ジェリーロールベイカーブルース

 
 
元憂歌団の島田和夫氏の訃報が流れてから、
改めて彼らの音源を引っ張り出した人たちも多いことでしょう。
彼の死が、今年発売されたばかりの
復刻版憂歌団ベストアルバム(紙ジャケット仕様、DVD付き)
の売上げに貢献してしまったのはなんとも皮肉なことです。
 
以前から書こうと思いつつ、その存在の大きさのため
手をつけることをためらっていた彼らのことを
少し書かせていただきます。
 



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「あほー!」「あほー!」「あほー!」

出てくるなり、アホの歓声が響きわたる。

大阪・京都以外で憂歌団のライブを見たことがないので、

なんとも言えないが、彼らがステージに姿を現すやいなや、

とにかく冒頭のような「アホ」の嵐。

こんなステージが展開されるのは関西くらいだろう。

そのアホと呼ばれる人物は、憂歌団のボーカル兼

サイドギターの木村に向けられたものだった。

 

大阪で『アホ』と呼ばれて愛されているのは、

おそらくアホの坂田こと坂田利夫大先生と

この木村充揮、当時は、木村秀勝の二人くらいのものだろう。


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憂歌団を知ったのは、確か75年の泉谷しげるの『オールナイトニッポン』だった。当時は、小学生だったため、タイマー録音で翌日聴いていたのだが、その時の放送が『隠れた名曲特集』だったと思う。西岡恭三の『プカプカ』や浅川マキの『夜が明けたら』なんかがかかっていた中に、お奨めの新人とかで憂歌団の『おそうじオバチャン』が流された。

 

泉谷はこの曲が気に入ったのだろう。番組中何度もかけ続け、すっかり覚えてしまった。当時の印象は、コミックバンド。おもろいな~と子供心に思ったものだ。

 

しかし、バンドの詳細はわからず、ただブルースを和名にしたバンド名だと知った。画像は79年発売の『80’のバラッド』当時の泉谷しげる。泉谷の番組は破天荒で面白かった。この頃、吉田拓郎や小室等らとフォーライフ・レコードを設立した。

 


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しかし、翌週、番組の開口一番、泉谷がのたまったのは、『例のあの歌、憂歌団のアレ。きっちり放送禁止になりまして、もう今夜はかけられねえんだよ。リクエスト一杯もらったけど、すまねえな。』だった。

 

初アルバム『憂歌団』の初シングルが『おそうじオバチャン』だが、発売後わずか一週間で放送禁止の憂き目に合ったせいか逆にレコードは売れ、今ならかなりのプレミアがついているはずだ。放送禁止の理由は『職業差別にあたる』とのことらしいが、リベンジのつもりか、セカンドアルバムには『お政治オバチャン』の楽曲が収録されている。もちろん歌詞だけ変えただけのパロディだ。

 

ジャケットイラストは誰だが忘れてしまったが、サングラスをかけたまるで魔法使いのおばあさんのようなオバちゃんが箒を持っておそうじしている。バックはさながら大日本帝国の旭日旗のようだ。


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<憂歌団の歴史>

ところで、1975年当時、憂歌団の面々は皆21歳で、まだ大学生の花岡を除いて、全員社会人だったが、内田は自由人というか、ジャケット写真どおりのヒッピーさながらの風貌で定職らしいものはなかった。これとは逆に、ドラムの島田とボーカルの木村には職があり、特に木村の場合は、平日は本業が優先され、音楽の仕事は土日に限定されていた。

 

島田は工芸高校写真工芸科を出て、街のイラストレーターのような仕事をしていた。本人は『ペンキ屋』だと謙遜していたが、大きな壁面にイラストを描いたりして、20歳そこそこで当時8万円ほどの給料をもらっていた。(結構な金額だ)

 

憂歌団は、内田と木村が高校2年時に結成し、4人になったのが、卒業後の20歳頃で、関西にしては珍しく四半世紀近くも長続きしたバンドだが、その秘訣は、彼らがいい意味で『気にしない』性格だったことと、『プロ意識』がなかったことだろう。木村と内田の願いは『最強、最高のアマチュアバンドでありたい』だった。


紅花紅子のブログ-kimura6 しかし、音楽業界に身を置く以上、音楽ビジネスの枠内から逸脱することは許されず、年平均一枚のアルバムを出すことを強いられる。彼らの16枚のオリジナルアルバムの中で、本当に自分たちのものと思えるのは、ファーストとセカンドのほぼ初期に限定されるのではないだろうか。

 

憂歌団は前期・後期に分けられ、特にワーナーミュージック移籍後の変化が顕著だった。お洒落歌謡曲路線という方針が打ち出され、上田正樹の『悲しい色やね』をあからさまに狙ったのような路線は憂歌団にとってある意味試練だった。

 

当時のヒット請負人康珍化をプロデューサーに迎えたアルバム『Blue’s』は過去最高の売上げを叩きだしたが、本人たちの意思よりもプロデューサーと会社の方針が優先されたのには理由がある。

 

当時、音楽的にも個人的にも危機を迎えていた憂歌団の荒療治の面が強かったのだ。あえて、他人の曲を歌い、あえてそれまでの鎮座スタイルから立ちスタイルに変えたのは、New憂歌団をアピールするためだった。ただ、立ちスタイルは思った以上に骨が折れ、すぐにやめてしまったのだが…。

 

他人の曲を歌うのは、難しい。例えるなら、既製服に無理やり自分の身体を合わせるようなもので、馴染むのに時間がかかる。慣れたと思ったら、又別の服を着る。なんだか滑稽な着せ替え人形のようで、しだいに感情移入ができなくなっていった。

 

<シンガーの誕生>

さて、稀代のシンガーといわれる木村だが、元々シンガー志望だったわけではない。高校時代は、見よう見真似で始めたブルースらしきものを伴奏をしていただけだった。リードギターは内田、歌も内田だった。木村は歌好きではあったが、人前で歌うことなど全く考えていなかった。

 


紅花紅子のブログ-kimura1 木村の音楽歴は古い。小学生時代に妹と一緒にピアノを習い、1年後にオルガン、中学からはクラシックギターを習っていたが、60年代半ばの習い事といえば、そろばんか、習字、学習塾などはまだ一般的ではなかった。そんな中、絵画教室や音楽教室に通わせる家庭はかなり特別な存在だった。

 

当時、木村の実家は鉄工所を経営していたが、鉄工所とは名ばかりの家族経営の町工場で、しかも木村は、7人兄弟のちょうど真ん中、上に姉、2人の兄、下に2人の妹と弟がいた。生活だけでも大変だったろうが、この親からも忘れられやすい存在の子供が音楽の英才教育を受けたのは少し事情がある。

 

学校でよくケンカしてきた兄や活発な妹たちに比べ、どちらかといえば目立たず、おとなしいかった木村は、暇さえあれば絵ばかり描いているような子供だった。両親はそんな木村を見守ってきたが、少し言葉が遅い息子に吃音癖があると知った時の気持ちはいかばかりだったろう。

 

おそらく気づいてやれなかった自分たちを責めたのではないだろうか。外で元気に遊んでいた子供がしだいに家にいることが多くなり、友達をやり過ごしてから、学校に行く。親には言わないが、心ない言葉を投げかけられたこともあったろう、また、真似をされることもあったろう。吃音のせいで内向的になり、絵ばかり描いている、やせっぽちで無口の息子になんとか自信をつけさせたいと思ったに違いない。こうして両親は、彼に好きなことを選ばせ、音楽を習わせた。少しでも自信をつけて欲しかったからだ。


紅花紅子のブログ-kimura2 高校に入り、ブルースにめぐり合っても自分が歌うことなど夢にも思っていなかった木村は、極めて恥ずかしがり屋だった。だが、内田に薦められ、初めて英語の歌を歌ったとき、心の中で何かが音をたてた。言おうとしてもなかなか言葉にできなかったものが歌を通じてほとばしる、そんな感覚を身をもって体験した瞬間だった。

 

吃音という『負の遺産』をエネルギーに昇華した木村の歌が聴く者の心を打つのは、思いを伝えようという気持ちが他の者より格段に深いからではないだろうか。シンガー木村の誕生である。これ以降、文字通り、歌は木村の生きる糧となる。

 

木村を中心に集まった憂歌団は、内田をはじめ、島田も花岡もこの木村という人間を何とかしてやりたい気持ちがあったからだろう。そうでなければ、あれほど長い間続けていけるはずがない。誰もが何とかしたくなる男、それが木村だった。

 

ステージ上で見せる木村のおどけた表情や意味不明な言動は、吃音を隠す為と照れの為せる業である。一旦、ステージを降りれば、ほとんど口を利かない無口な男に戻り、日本版スリーピー・ジョン・エステスと呼ばれるくらい気配を消し、インタビューなどに答えるのは専ら内田か、花岡だった。


先述したとおり木村の実家は鉄工所で、まっとうに生きることを良しとする家庭だった。そのため、音楽のようなヤクザな稼業を認めるわけにはいかなかった。音楽に当てる時間は土日だけ、平日は朝から夕方まで勤務することを条件に音楽活動が許されていた。しかし、77年の夏のライブ活動が極端に多かったため、工場勤務をやめたのだろうと思っていたが、完全にやめたのは1981年のことという。おそらく妹や弟が卒業し、社会人になったのを機にやめたのだろう。


<尾関ブラザーズとの出会い>紅花紅子のブログ-yukadan2

憂歌団を代表する楽曲の殆どがファーストとセカンドアルバムに収められている。楽曲はオリジナルで占められ、当時も今も画期的なのは、日本語ブルースにこだわっている点だ。今も昔もたいていのブルースバンドがカバー一辺倒なのに比べ、憂歌団ははじめから日本語にこだわった。この憂歌団を憂歌団たらしめたのが忘れてはならない『尾関ブラザーズ』である。

 

尾関ブラザーズは、70年代初頭名古屋で活躍していた兄弟デュオで、楽曲は兄の尾関真が手がけ、弟の隆がカントリーブルースギターを弾いた。当時の名古屋はブルースのメッカといわれた京都よりもある意味盛んだったのではないだろうか。後にブレイクダウンに入る近藤房之助もいて、名古屋のブルースシーンは熱かった。

 

レコードデビュー前に頻繁に名古屋を訪れていた木村と内田がオリジナルの日本語ブルースを歌う尾関ブラザーズのステージを見て、衝撃を受けたのがそもそもの始まりだった。


紅花紅子のブログ-kimura7 しかし、日本語ブルースという新しいジャンルを確立した尾関ブラザーズが憂歌団と共に表舞台にたち、活躍することはなかった。尾関ブラザーズは、76年初頭ごろに活動を休止し、その軌跡を絶った。現在、兄の真は名古屋でキューバー音楽のバンドを続けているが、カントリーブルースを弾いていた弟の隆の姿はもう見えない。

 

内田と隆は、同じギタリストということもあり、仲が良く、よく二人でセッションをしていたが、事故でもなく、病気でもない、思いがけない隆の死によって終止符を打つ。隆のふいの死は兄・真の心を苛み、ブルースを封印するまでに至る。隆の死は、残された者の心をズタズタにするに十分だった。もちろん憂歌団もだ。画像は、内田と隆。仲の良さがしのばれる。

 

尾関真の名は、憂歌団の二枚の名盤に収められ、今尚、歌われている。ベッシー・スミスの原曲が元になった『ジェリー・ロール・ベイカー・ブルース』もそのうちの1曲だが、個人的に思い入れが深い。定かではないが、ジェリー・ロールには『売春』の意味があり、メリーはパンではなく、春をひさいでいるという説もあるが真意はどうなのだろう。


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<様々な死を乗り越える>

あまり知られていないが、尾関ブラザーズの隆をはじめとして、憂歌団は多くの死を乗り越えてきたバンドでもある。もちろん長い間やってくれば、思いがけないことがたくさんある。四半世紀近く続ける間に、スリーピー・ジョン・エステスからブルースの何たるかを教わり、父を送り、母を送り、多くの身内を送り出してきた。

 

さて、木村の結婚は早く、20歳で幼なじみの女性と結婚し、23、24歳の頃には子供が生まれている。77年の京大西部講堂のライブに遊びに来ていた、いわゆるヨメはんと木村の写真が当時の音楽雑誌に掲載されていた。写真の彼女のお腹は大きく、臨月間近に見えた。

 

にこやかに微笑む、懐の大きなヨメはんに心身ともに頼り切っている木村の照れ笑いが印象的だった。『この人はヨメはんがいないと、きっとダメなのだろう。』と中学生にもわかる良い写真だった。木村が安心してライブ活動で日本全国を回れるのも、ヨメはんあってのことだ。何があっても優しいヨメはんが何とかしてくれた。いわばヨメはんは木村の精神のよりどころでもあったのだ。


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88年当時の憂歌団は、マネージャー奥村ヒデマロ氏たっての希望で、大阪の姉妹都市シカゴでのブルース・フェスティバルに出演し、成功を収めた頃で、傍目には絶頂期を迎えていた。

 

しかし、このフェスティバルを境に、メンバーとマネージャーとの温度差が顕著になり、翌年、長きにわたってマネージャーを務めてきたヒデマロ氏が勇退する。奥村氏としては、自分のバンドを世界に紹介したいという思いが強かったが、メンバーにそんな欲はなく、ただ面倒なだけだった。シカゴのフェスティバルは好評だったが、その後、憂歌団が参加することはなく、最初で最後のシカゴだった。

 

こうした輝かしい活動の裏に、音楽的に行き詰まりを感じ始めたのも同じ頃だった。良い意味で欲がなく、プロ意識がない憂歌団だったが、メンバー間のそれぞれの思いも無視できなくなるほど重くなっていた。

 


紅花紅子のブログ-yukadan5 印象的だったのが、内田がラジオに出演していた時のことだ。島田について、『ブラシばっかりやってて気の毒や。ホンマはブラジル音楽が好きやから、思いっきり叩きたいやろに…。』と発言したことだ。「バンドでいつも一緒にいるからこそ、逆に、本音は語らないのか…。」と少なからず驚きを感じた。

 

他のバンドのように、ステージが終われば、つかみ合いの大ケンカが殆どなかったのは、それぞれが自分の本音を抑え続けていたからだろう。そんな状態が続けば、やがてどうしようもなくなるのは当然だ。

 

本音を隠しながらの活動の陰に、木村の私生活が暗い翳を落とす。木村の優しいヨメはんのあまりにも早い死だ。彼女の死は、木村をどん底に突き落とし、飲めない酒を浴びるように飲みだした。それまではどんなに仲間がへべれけになろうと、一杯の酒を何時間を前にして座っているような人間だったが、彼女のいない生活は地獄の始まりだった。

 

死というものは、先に逝く者も辛いが、残される者は尚辛い。木村は『どうして助けてやれなかったのか、何故、先に逝ったのか、俺が死なせたのか?』と自問自答する毎日が続いた。おそらく、木村に『歌』というものがなければ、ダメになっていただろう。それほどヨメはんの存在は大きかった。私生活で行き詰まり、音楽でも行き詰まり、この時の憂歌団が本当の意味で危機だったと思う。そんな木村を救ったのが、歌であり、憂歌団のメンバーだった。木村の風貌が極端に変化を見せるようになったのもこの頃からだ。それまでのキュートな面立ちがどんどん変化していくさまは、事情を知る者にとって正視に堪えなかった。


紅花紅子のブログ-kimura10 <突然の改名>

表向きは突然、駅で『改名宣言』したことになっているが、実際は、考えに考え抜いての行動だったはずだ。ヨメはんの死をどう乗り越えるのか、彼なりの決意を世間に見せた証である。この時、一緒に改名したのがベースの花岡で、彼もまた気持ちを一新し、次のステップへと踏み出した。

 

シンガーとして悩む木村にアドバイスしたのが、故忌野清志郎である。『喋ってることをそのまま歌えばいいのに…』と答えた。なるほど、心の動きをそのまま歌にする。どのブルースマンもやっていたことだろうが、言うは易し、するは難し。その場の気持ちを歌にする技術は並大抵のことではない。

 

私が知る限り浅川マキさんくらいだろうか。彼女の場合は、日常から非日常に飛ぶ落差が激しく、常人ではとてもついていけない。また、踊りで表現している人もいる。田中珉だ。この人も深すぎて、ちょっとやそっとではついていけない。

 

現在、木村は今の気持ちをとても大切に歌っている。本当にふっきれたように楽しむ彼を見て、この境地にようやくたどり着いた過程を思い知る。島田の突然の死により、木村が願っていた新しい憂歌団の始まりは終わった。だが、別の意味の憂歌団はあると信じたい。島田も木村も内田も花岡も別の意味で一緒にいるのだろう。そう信じたい。ありがとう憂歌団。

 

 

※ここからは管理人の書き込みです。(2021/1/11)

 木村さんの奥様が亡くなっておらず、お元気にされているということを複数の方からご指摘いただきました。

 何かの勘違いだったと思います。申し訳ありません。

 私は紅子さんの文章を書き替えるほどの権限はありませんので、最後に注釈のみ追加させていただきました。