物部川統合堰のこと(1)野市百人郷士 | がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

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土佐の山間・仁淀川町(によどがわちょう)の(元)地域支援企画員の日記!

物部川統合(町田堰)のことを改めてブログに何回か書いてみたいと思います。
 
思えば、この2年間、香南市農林課では、仕事を自由にやらせてもらいました。町田堰のことは、今まであまり役場も関わってきておらず、情報自体がなかった。何から手を付けてよいかわからない部分がありました。土木工事は自然との調和な仕事なんで理にかなうようにするしかないので理論の世界。多面的に知らないといけないと思い、調べたり人に聞いたりの連続でありました。その中で考えたてきたことを書いてみたい(^^)まあ、お付き合いください。
 
 
しかし、その町田堰から得た水を使うのは人の感情や個々人の営み、組織の合意、先見的に取り組むか放置か、多彩で多様な人間社会が絡むとなる世界。こちらがなんとも難しいと思った。うまく言えないが。そこで、原点に帰り、野中兼山さんらの農地開発の歴史を調べ、当時の百姓の苦労に想いを馳せた。
 
町田堰は香南市や南国市の農家さんの田畑約1400ヘクタールへ水を送るというとんでもない仕事をしてる。本当なら物部川にあった6つの堰が各々取水していた灌漑用水の仕組みでしたが、S41に今の香美市町田に統合され、町田堰一箇所となった。水は香南市側から南国市へ物部川下をサイフォンで結び配水している。この統合は洪水の度に物部川の堤防が決壊する歴史を知る地元民にとっても課題であったに違いない。
 
町田堰で物部川の水を堰き止め、左岸、つまり香南市側で一本の流れとし、野市まで流し、そこから三方向、つまり南国市へは物部川下をサイフォンで配水し、残り二方向は野市北部、野市南部に配水した後は各エリアまでヒトの血液、血管の如く隅々まで発達した水路網により水が配る仕組みになっている。ポイントはサイフォンという離れ業的な直径1.35mもある管を物部川の下に1000mもの長さで横断的に埋設している点だ。
 
野中兼山の考えた物部川の水を利用した巨大水利システムは少し形を変えながら現在にまで受け継がれ、コンクリート化され、鋼製化され、サイフォンが追加された。そして、現代それらを使い続けて農業が出来る台地にあるのが香南市西半分であり、南国市の空港周辺の農地なのである。重力、水の力で。しかし、水争いの歴史もずっとあり、今でも受益地下流域エリアでは水不足に悩んでいる。とはいえ、いかに野中兼山の考えたこの物部川利用が凄かったか実感します。
 
香南市教育委員会指定で、町田堰からの引水した水が野市エリアに配水する前の分水ポイントが『三つ叉』と呼ばれ、文化財となっている。県内唯一の野中兼山遺構であり現役施設である。川床に使われた松材が役場に保管されている。また、あまり知られていないが、そこから分流された幹線水路を掘ったのは長曾我部遺臣たちで野市百人郷士という。山内家にとって長曾我部遺臣たちの扱いは難問だった。野中兼山の画期的な人材登用がこの郷士たちとの融和策、郷士制度であり、何ヘクタールかの土地を与えられ、免税となり土着して農業ができるかわりに、水路を掘削することを義務化された。いまでも、香南市野市エリアには郷士の名の付く水路が残っており、これらこそ文化財だと思うわ。野村溝、近藤溝、武市溝、岩崎溝などたくさんある。労働力の大切さを一番野中兼山は知っていた。
 
 
これが、町田堰(物部川統合堰)の一つの概要です_φ(・_・
またつづく内容で書いていきますね。
 
物部川統合堰のホームページ
 
 
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SEE YOU!