南北朝時代・楠木家の子孫が河内の浄土真宗寺院の僧侶となった者が多いのは何故か

中世以来、時の権力による弾圧、粛清、逆賊狩りから逃れるために、姓を変えて別の氏族に養子に入ったり、あるいは、出家・得度して僧侶となって寺院に入ったりすることは珍しくありませんでした。

皇家も、嫡子以外の兄弟や正室以外の子(庶子)、猶子などの親王は、特に朝敵、政敵から謀反など政治利用されないように、または、暗殺や粛清に遭わないように、早々に出家・得度させるなどして、門跡寺院に入らせて、法親王、入道親王として難を逃れさせるようにしていたのであります。

特に有名なのが、天台三門跡(妙法院・青蓮院・三千院)で、歴代の天台座主の半分ほどは親王が就くような時代もあったのであります。

他に門跡寺院には、醍醐寺、仁和寺や大覚寺、知恩院など十三ほどが有名であります。また、皇女を受け入れる尼門跡も存在していました。

皇家では、このようにして、無用な政争へと至らないように、避けるために、親王の受け入れ先を安定して設けていたわけです。

これは皇家以外でも、摂関家や将軍家でも行われたことで、それぞれに同じように無用な政争や粛清を避ける目的があったのであります。

また、摂関家や将軍家以外でも、幕府の政権交代等があり、朝敵や逆賊となってしまった臣下等も、粛清や逆賊狩りから逃れるために、出家・得度して僧侶となって寺院に入って住持となったり、もしくは寺院を開山、中興開山することも一般的に行われていたのであります。

いかに生き残り、家門、家督を絶やさずに存続させるかに当然に必死であったわけです。

図のように、南北朝時代、河内においての楠木家も、足利幕府、北朝勢力からの度重なる粛清、逆賊狩りから逃れるために、一族は、僧侶となって寺院に入ったり、あるいは、池田家、和田(にぎた)家の養子となったり、偽装のために姓を変えたり(有名なのが南木(なぎ)家など)して、生き残りを図っていったのであります。

興味深いのは、その寺院全てが、浄土真宗ということです。

他にも、東大阪市五条町にある天野山専宗寺は、元々は真言宗(天野山金剛寺の末寺)であったものの、和田(にぎた)正玄の三男・楠木正頼が、足利幕府による詮索から逃れるために僧侶となり専宗寺に入り、更にその際には真宗へと改宗しています。

なぜ、このように楠木家の子孫たちが僧侶となって開基、もしくは改宗した寺院には、浄土真宗が多いのか。

もちろん、家門、家督を絶やさずに子孫を存続させるためには、半僧半俗として、戒律が厳しくなく、妻帯も許されていた真宗であれば、子どもが生まれれば血縁を残せていけるということが、その大きな理由であったと考えられるのであります。

河内での楠木家だけでもこれだけあるわけですから、他の(逆賊・粛清対象となった)氏族でも同様なことが考えられるわけです。

浄土真宗の寺院が、爆発的に増えることになった理由の一つには、実はこのような時代における背景も少なからずあったのではないかと考えられるわけであります。

同様にして、川口家の祖と一説になる尹良(ゆきよし)親王の子・良王(よしたか)君が、津島大橋家に入ったのも、足利幕府による度重なる厳しい詮索、逆賊狩りから逃れるための苦渋の選択であったと思われるわけであります。

また、川口宗勝が直臣として織田信長に仕えていた頃に、安土城下に武家屋敷を構えていた川口家一族が、本能寺の変後しばらくして川口宗勝とは分かれて、僧侶となって武家屋敷を寺院として開基したのも、一族として生き残るためであったと考えられるわけであります。

ですから、やはり、家門、家督を絶やさずに存続させる選択として、浄土真宗にて開基したと思われるのであります。

このように、意外にも浄土真宗の僧侶となることで、家門、家督を保つ選択をした氏族は、案外全国でも多かったのではないだろうかと思うのであります。

一方で、川口宗勝は、本能寺の変後は、織田信雄、豊臣秀吉と仕えて、関ヶ原の戦いでは、豊臣方の西軍で戦うも、織田信長の直臣であったこと、また、徳川家康と宗勝は、はとこ関係であったこと(また、伊達政宗による嘆願・伊達家と大橋家は南朝功臣同志の深い縁)から、秀忠により放免されて青菅旗本に取り立てられて、以後、四代にわたり同地を知行することになりますが、川口宗恒(長崎奉行・江戸町奉行)の死後、徳川綱吉による後南朝断滅策の改易によって没落することになります(川口家が、大橋家以来による南朝遺臣であり、また後醍醐帝後胤(良王君以来からの)となる説もあったためによると考えられます。同様に、大橋家も不遇の時代を迎えることになります)。