後醍醐天皇の孫・尹良(ゆきよし)親王のお墓についての一考察

静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家の針間野集落跡には、後醍醐天皇の孫、宗良(むねよし)親王の皇子とされる尹良(ゆきよし)親王のお墓となる宝篋印塔があるということで、尹良親王の皇子である良王君が、津島大橋家、そして、津島大橋家からの養子を迎えた川口家の先祖になると一説では考えられていることから、この宝篋印塔について少し詳しく調べてみることにした。

まず、近影となるネット上の画像を最初に見たところで、かなりの違和感を感じた。

これは宝篋印塔ではない。

では、五輪塔なのかといえば、五輪塔でもない。

中世の高貴な者のお墓は、建立されるとしたら五輪塔か、宝篋印塔である。そのどちらでもないのであれば、お墓ではないのではないか、ということになる。

しかし、これは、昔より伝承、口伝で南朝の王子(尹良親王)のお墓と今に伝わってきている。

どういうことであるのか。

ここに逆賊、逆臣の汚名を着せられてしまって、非業の死を遂げた者の悲しい現実を目の当たりにすることになるのである・・

これは偽装されたお墓であると考えられる。

形状をよく分析すると、多くの転用が窺えるのである。

上から、五輪塔の宝珠型、半月型(あるいは灯籠の宝珠)、そして、傘が、社型で屋根を少し平らとなるように切ったもの、その下が、(春日型)灯篭の火袋、灯籠の受け(蓮華座)、柱、石盤(地輪)となっている。

このように意図的に偽装して、遺骨・遺灰か遺髪、または、経筒、舎利容器等を火袋に納めて祀られた可能性が考えられるのであります。

もし、建立時に南朝方の親王のお墓であると、すぐに北朝方、幕府方に知られてしまったら、当然に破却、滅失させられてしまうのは明らかであります。

ですから、偽装せざるをえずに、秘密裏に祀り、証拠を残さないように口伝の形で伝えていかないといけなかったわけなのです。

火袋の部分は、正面に明らかにはめ込まれた石があり、取っ手のようなものも見えます。つまり、取り外して、中に納められるスペースがあるのではないかと考えることができます。

既に中のものは何もないかも知れませんが、改めて調べることで、もしかするとこのお墓の由来について分かるものが何か残っているかもしれません。

また、火袋の左右、後ろにも何か彫られてあるように思われるため、何が彫られてあるのかも注目すべきでしょう。

そして、最も私が気になっているのが石柱の彫り物です。

画像からは、三本の足と左右の翼、そして、中央にクチバシと見えるのであります。もしかすると蓮の可能性もあるでしょうが、もしも、これが八咫烏(やたがらす)であれば、ここに祀られてあるものについて、その確かなる痕跡をここに残したと考えることができるのであります。(※もしかすると賀茂家・上賀茂神社・下鴨神社・八咫烏神社の家紋・神紋の二葉葵である可能性もあります。)

神武天皇の東征の際に大和国まで導いたとされる八咫烏は、やがて神格化されて祀られますが、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)など、実際に東征を助けた有力人物が由来であったとされる説があります。


その鴨建角身命からの一族が、上賀茂神社・下鴨神社、全国の加茂・賀茂・鴨神社へと繋がる賀茂氏で、朝廷の陰陽道・神道を少なくとも南北朝期までは取り仕切っていたとされるわけです。つまり、神武天皇以来、天皇にかなり近いところで仕えていた一族であったというわけです。

やがて、天皇に関する祭祀を取り仕切る中で、陰陽道、神社神道を束ねる有力一族となり、大和賀茂氏、山城賀茂氏、備前賀茂氏と地方でも大きな勢力を占めることになっていたと考えられます。

そして、何よりもこの八咫烏陰陽を篤く信仰していたのが、後醍醐天皇であり、奈良県宇陀市榛原にある八咫烏神社を庇護していたのであります。

後醍醐天皇が何度も京都での窮地を脱して、比叡山や笠置、吉野等へと逃れることができたのには、朝廷の祭祀を取り仕切っていたこの賀茂一族の助力があり、各地にある神社のネットワークを通じて、容易に逃れていくことができたとも言えるわけです。

もちろん、当時に真言宗の東寺長者であり、後醍醐天皇の護持僧であった文観によって、文観に縁のある寺院のネットワーク、修験道のネットワークが利用されたというのが有力な説でありますが、三者のネットワークがうまく使われたというのが、本当のところではないだろうかと思われます。

後醍醐天皇が崩御したその後も、後村上天皇や以後の南朝方の天皇や親王を賀茂一族が支えることになっていったのも、天皇の祭祀を取り仕切っていた関係からも当然のことであったと言えるのではないかと考えられるのであります。(やがて、岡山へと逃れた小倉宮家の皇族が立てた美作後南朝の植月朝廷を支えて、祭祀を取り仕切ったのが備前賀茂氏と考えることができるのであります。)

そして、尹良親王にも仕えた賀茂一族がおり、その賀茂一族が、戦乱の中で非業の死を遂げた親王のお墓を建立して菩提を弔った可能性があるということになるのであります。

そこで、せめて、南朝親王のお墓であることを後世に示しておきたいとして、この石柱に八咫烏を彫ったのではないかと思われるのであります。とにかく、いずれ調査と供養を兼ねて現地へと赴きたいと思います。



宗良親王・尹良親王・井伊家・大橋家・川口家・織田家・徳川家についての一考察

宗良(むねよし)親王の母は、二条為子で、その先祖が藤原定家であるということは以前に考察しています。

宗良親王がかなり和歌に優れていたのは、当然に藤原定家から続く母親譲りの血筋にあったからであると思われます。

この宗良親王の妃が、宗良親王に従って活躍した井伊道政の娘の駿河姫で、その皇子が、尹良親王となります。尹と付くのも伊からであると、そのままに想像できるわけです。

しかし、尹良親王は多くの伝承がありながら、未だに歴史的には懐疑され続けている存在であります。宮内庁により認定された陵墓があるにもかかわらずに。

軍記の浪合記の物語性によるところからであろうが、そもそも全く何もないところからそんな話は出てくるわけがなく、やはり、地方、地方で伝承されてきたことが、その下地となっているのは明らかであり、その足跡、史跡も多く残されてあることから鑑みても、実在性の方がはるかに高いと思われるのであります。

ちなみに井伊家には、やがて徳川家康の四天王の一人として活躍する井伊直政が出てくる。南朝功臣の井伊家と徳川家。宗良親王と井伊家。尹良親王と賀茂一族。賀茂一族と徳川家康。井伊直政と徳川家康と・・まあ、色々とまた繋がってくるのではありますが・・

とにかく、くだんのお墓が、尹良親王の実在を裏付ける一つの大きな鍵となるのではないかと思われるのであります。

宗良親王には、桜姫という娘がおり、その桜姫が津島大橋家の大橋定省の室となり、その子の定元の娘が、尹良親王の子・良王君(尹重)の妃となって、その子が大橋信重で、信重の子が、定廣、定廣の子が盛祐、盛祐が川口家へと養子に入ることになります。

良王君・尹重の尹は、井伊家を表し、重が、子の信重へと受け継がれたと考えることができます。

ここで言えるのは、良王君が婿養子のような形で大橋家に入ったと言えるわけでありますが、これも幕府、北朝から南朝の皇子を守るためにやむなくのことであったと言えるでしょう。お墓でさえも偽装しなければ祀れなかったと考えられるわけですから・・

いずれにしても、大橋家、川口家、井伊家も、その後、南朝方功臣同士として織田信長や徳川家康に従って戦うことになっていくのであります。

何よりも織田信長の叔母と大橋重長の子である織田信弌は、織田家連枝とまでなっています。(本能寺の変で信忠と共に討ち死にしている)

信長が、連枝にまで引き上げて信弌を重用したのも、大橋家を南朝後胤と信長が認めていたからでもあるのでしょう。

同じく大橋家から養子となった川口盛祐の孫となる川口宗勝(母は織田信長の伯母・徳川家康とははとこ同士)も南朝後胤として認めていたために直臣・弓大将として重用したのだと考えられるわけであります。

とにかく、静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家の針間野集落跡にあるお墓が、尹良親王の実在を裏付けることになるかもしれないため、実際に現地に行って調べてみたいと思っています。