人それぞれに懐かしかった思い出、消したい思い出がある。しかし、人生というものはそれらの思い出が重なり、人それぞれの蒔絵が描かれてゆくものである。それは楽しくもあり、悲しくもあり、懐かしくもあり、人生の織り成す芸術である。振り返れば、私も波乱万丈の人生を送ってきたものである。これから残された人生において指針になるべく、ここに私自身が体験した思い出を書き留める事にする。


19737月、ニューヨークのけだるい夏の暑さも消えうせた、真夜中、零時1分、ワールド航空のB747チャーター機、初便は450名の米国観光客を乗せてニューヨークJFK国際空港を羽田に向かって飛び立った。飛び立った後のランウエイに光る無数のライトが、なにかしら自分に勇気と明るい未来をあたえてくれた。


私はその前年、これまでお世話になったK社のニューヨーク支店を退社、独立の道を歩んだのであった。若干33歳の船出であった。自分にはお金があったわけでもなく、アメリカという異国の地において親戚があったわけでもない。ただ、K社の駐在員として赴任、5年を過ごした経験が、不確かではあるが、自分を試して見ようという気持ちがこみ上げていた。親から借りた僅かの所持金と、社員4名のスタートであった。無謀な出発であった。


その後も、ワールド航空のチャーター機は、5日おきに、シカゴ、ボストン、ワシントンダラス、フィラデルフィア、マイアミ等の空港から満員のアメリカ人観光客を乗せて東京に向かっていった。7月から8月の2ヶ月でジャンボチャーター10機、実に4,500名に及ぶアメリカ人観光客が、設立1年後の、新しい会社で達成出来たのである。まさに、夢の実現であった。


当時、日本の航空会社はまだB707機を使用しており、B747ジャンボ機は日本人にとってはものめずらしく映っていたのであった。その前年、K時代にDC10のチャーター機、350名乗りで、バンコクからの帰路、羽田で給油した事があった。日本航空の地上係員がDC10の機材の大きさに驚き、はしごを急遽持ち込んで機内を見学した光景が目に浮かぶ。今となっては、決して考えられない光景である。

                                

その翌年は日本航空と15本の連続チャーターを契約したが、販売途中で突如、JLのチャーター機が不可能となった。さあ一大事である、チャーター機が出来ないとなると、顧客と2億円を越す契約違反となる。順調に船出した会社は早くも暗礁に乗り上げる事になった。


当時、私はニューヨーク6番街と47丁目のロックフェラーセンターの中心地、27階に事務所を構えていた。JALのニューヨーク支店は5番街の52丁目にあった。突然、JLの支店長から呼び出しがあり、JLの支店に来るよう要請があった。相手は大物支店長、私は若干34歳の若輩ものであった。私は対等に話し合う事を心に決めた。私はJLの事務所に行くことを拒否、私の事務所とJLニューヨーク支店の中間地点にある、ニューヨークヒルトンホテルまで出てきてもらってそこでの会談を要求した。


会談は2時間程度と難航、形勢は不利であった。しかし、最終的にJLニューヨーク線の定期便で100名づつチャーター便の料金で連続して運ぶことで合意、さらに弊社で出費した広告費等の損失補填等を引き出し、事なきを得たのであった。今となって考えると、若さと情熱だけで無謀に立ち向かったものと思う。困難に向かっても決してひるまなかった姿勢が相手に勝ったと考えた。

JL支店長との厳しい会談が終了した後はひざががくがくと震えていたのを覚えている。しかし、どのように難しい交渉を行ったかはまもなく記憶から消えてしまった。最終的にはJLニューヨーク線の定期便を利用、一夏で4,000名のアメリカ人観光客を日本及び香港、バンコクに送客した。


それは圧巻であった、毎週、4日おきにJFK空港へ行くと、Orient Holiday のマークをつけた

米国人観光客でJLの専用カウンターはあふれかえっていた。まるで、弊社の客がJLのカウンターを占有しているような情景であった。思わず、自分自身に身震いを感じた。


「一夏、4000名の数字はいまだ、JLニューヨーク線では破られていない」と言う話しを当時ニューヨーク支店に勤務されていた方から聞いた。大志に心を燃やしていた頃の若い自分を思い出していた。


戒めの言葉

どんなに成功しても、絶対に有頂天になってはいけない。人生は地球の営みと同じで、太陽が輝く頂点もあり、また、暗闇に自分を模索する事もある。成功している時こそ、自分を戒めよ。