「主権・領土・国民」が、「国家の3要素」であることは、中学校か高校の教科書に載っていたかもしれません。あるいは、先生からきちんと授業を受けた方もいるかもしれません。

国家と言えるためには、この3つが揃っていなければならないので、「国家の3要素」と呼ばれるわけです。これについては、教科書に書いてあることもあり、異論がある人は少ないでしょう。

しかし、「国家存続の3条件」は何か?と聞かれて答えられる人はいないでしょう。

大学の政治学の先生に聞いても、即答できる人はほとんどいないでしょう。政治家に聞いても同じようなものでしょう。

どんな、政治学の教科書を探しても、入門書を探しても載っていないのではないでしょうか?

それは、「国家の3要素」が、ある程度の時間、たとえば100年とか1000年の時を超えても当てはまる概念であるのに対して、

「国家存続の3条件」とは、特定の国の、特定の期間にしか当てはまらない概念であるので軽視されてきた、というよりほとんど考えられてこなかったからではないでしょうか。

「国家存続の3条件」というのは、国家に3要素が必要なら、国家存続に必要な3つの条件とは何かを、いま考える必要があるでしょう。

国家存続の条件には、多くのものがあるけれども、そのなかでも、あえてもっとも重要な3つのものを挙げるとすれば、それは何だろうか? もちろん、これは現代日本についての命題です。


その私の答えを初めは、「外交政策・経済政策・価値政策」の3つにしようと思ったのですが、少し抽象的すぎて具体性がなく、よくわからないと思ったので、

いまは、以下の3つを「現代日本の存続条件」としたほうがよいと思っています。それは、

 1. 国防・安全保障政策
 2. 財政政策
 3. 金融政策
 
の3つです。少なくともこの3つについて、正しい政策が揃わないと、日本という国が急加速で衰退し、滅亡するということです。

財政政策や金融政策は、国を富ませ発展させるために、とても重要な経済政策です。

とくに、金融政策については、ほとんどの方が意識していないかもしれませんが、いまの日本でこれほど重要なものはありません。日本銀行が、総裁が変わってようやく機能しはじめました。

そのほかにも、この3つに匹敵する重要なものはたくさんあります。たとえば、この3つの政策決定に大きな影響を与える選挙制度や教育の問題もありますが、間接的・長期的な問題なので、あえてこの3つからは外しました。

この3つのなかで、国家の存続にとって最も重要なものは、ダントツで「国防・安全保障政策」です。

国家の存続にとって何がいちばん重要か、ということをこれまで考えてこなかった人でも、このことは、おそらく2~3分考えてもらえればわかることだろうと思います。

国がどれだけ経済的に発展し、国民が豊かな生活を享受していても、他国から侵略されれば、主権・領土・国民の「国家の3要素」の一部または全部が消滅することになるからです。

「国民」を失うとは、虐殺され、投獄され、その生命と自由を失うことです。

「領土」を失うとは、島々をはじめ、日本本土の一部または全部が侵略国に編入され、伝統と文化が抹殺され、国名そのものも消滅するかもしれません。

そして日本国政府は機能しなくなりますから「主権」を失うのは当然です。

しかし、ほとんどの国会議員は、選挙のときに「国防・安全保障政策」のことを訴えようとはしません。国防・安全保障政策のことを、いくら一生懸命に訴えても、「票」にならないからだそうです。

国民が考えていない、国防・安全保障政策のことを訴えて落選したら「愚か者」だと当選議員から言われるのはもちろん、自分自身が当選することが第一義になりますから、国防・安全保障政策のことを訴えずに、票になりそうなことを訴えて国会議員となります。

なぜ、いちばん国民にとって大事な国防のことが票にならないのか?
その原因を考えて当選後に、何らかの行動を取ったという国会議員を私は知りません。

いちばん国民にとって大事な国防のことが票にならないのか、そのことを突き詰めていけば、やはり国民の教育というところに行かざるをえないと思います。

国民が、国防や安全保障についての基本的な知識を持つようなれば、
立候補者がどのような考えを持っているか自然に興味を持つようになります。

では、どのように中学・高校で、これを教えたらよいのか? 
現在の教育カリキュラムは、すべてご破算にして新しく創りなおす必要があります。

ほんとうは、現代の日本の状況を考えれば、「国防・安全保障」の教科については、少なくとも全教科の中で一番多くの時間を配分する必要があるのではないでしょうか?

国防・安全保障を学校で教えるとなると、まっさきに予想される反論というのが、そんなことを教えると、かえって戦争を煽ることになり、国民を間違った方向に導くことなる!という、とてもレベルの高い?反対意見でしょう。

ま、こういう反対意見が出ること自体が、これまでの教育が誤っていたという証拠になると思うのですが。しかし、いまのところ、こんな改革を訴えている政党は一つもないので、こういう意見の持ち主は、充分安心していただければと思います。

それと、教科書の問題となると、いつも槍玉にあがるものの、大きな壁に跳ね返されている、いわゆる「自虐史観」をバックボーンとした教科書の君臨でしょう。

それで、子供たちが自国の歴史に誇りを持てるような新しい歴史教科書をつくろう、ということでいくつかの教科書が生まれているようですが、採択されているのは僅かだと聞いています。

たしかに、この問題も重要だと思いますが、これまでの教科書問題では、どのような史観に立って教科書を記述するか、つまり、どちらの立場で記述したほうが、教科書としてふさわしいのか、という議論の対立ばかりだったと思います。

そこで私は、まったく新しい教科書の記述方法というのを提唱したいと思うのです。わが国には、「教育学」というものはあっても、「教科書学」という概念がまったく存在しません。

この「教科書学」という概念に、「教育学」と同等の市民権を与えたいと思っているのです。「教科書学」について述べ始めると、とても長くなってしまうので、ここでは簡単にとどめておきたいと思いますが、これは教科毎にまったくアプローチが異なります。

一つだけ例えば、歴史の教科書を取り上げてみましょう。
「竹島」とか「尖閣諸島」とか「北方領土」の問題を教科書に記述するとするならば、わが国に限らず、各国とも自国の立場からの見解を記述し、これを生徒に理解させるという方針だろうと思います。

では、「歴史の教科書」では、どのような記述にするのか?
これは、簡単なことです。

韓国や中国がどのような理由で、「竹島」とか「尖閣諸島」を自国の領土だと主張しているのか、十二分に紹介することです。

それに対してわが国は、どのような理由で日本固有の領土だと主張しているのか、論点ごとに双方の意見を紹介し、それぞれについて、どちらに言い分があるのか?何故そのような主張をするようになったのか? 全体としてどちらの意見が正しいのか?

あるいは、他国との関係ばかりではありません。さらに、これは必然的に前年の教科書になりますが、他の教科書は、どのような記述をしているのかまで、載せていいと思っています。

あるいは、各政党で教科書に載せる事案で見解が違うというのなら、その見解すべてを載せ、他党との意見の違いを、すべて子供たちに見せればよいのです。

そして、子供たちに、多様な意見のなかから、何が正しい意見なのかをくみ取る訓練をさせましょう。

要は、いままでにない常識の柵外に打ち込むような教科書を考えてほしいと思っているのです。

教科書というのは、対立する、あるいは異なる見解のある事柄に関しては、教科書執筆側が、一方的に自分の考えを押し付けるのではなく、できるだけ多くの考えを生徒に紹介し、どれが正しいのかを考えさせることが重要だからです。

「見識の広さ」と「正義観の高さ」で、他国を圧倒する! こういう教科書を日本は作ってみなさい! これも、間接的に有効な外交戦略になるのです。

社会に存在するいろいろな見解の相違が、なぜ生じるのかを子供のうちから考える力をつけさせておくことで、社会に出てからの行動・判断に有益な示唆を与えることになり、これが国の発展のために大いに役立ってくると信じているからです。

「金融政策」や「財政政策」も、「国防・安全保障」の授業時間に次いで、多くの時間を割いて教えることが重要です。そうでなければ、どの政党が正しい経済政策を主張し実行しているのか、まるでわからないで、投票しなければならなくなります。

「金融政策」を教えなければ、日本銀行が、いま行っている政策が正しいのかどうかさえも考えることがなくなります。日本銀行が、どんなに国の発展を阻害することをしていても、その原因が日銀にあるということさえ考えなくなります。

そうすると、誰が当選しても政治は変わらないと考えるようになります。
そうすると選挙に行くのが、つまらなくなり、投票率が下がってくるのです。

いま選挙のたびに投票にいくことを訴え投票時間を延長するなど、さまざまなことを試みて投票率を上げようとしていますが、長期的にみれば、教育カリキュラムを変え教科書を新たなものしたほうが、遥かに効果的で、うわべだけの投票率が上がるということもなくなります。

その意味で、国家存続の3条件が何か、を教えることは重要であり、それをカリキュラムにして、充分に授業時間を取って教えることが必要なのです。

「遠い未来のことより、明日の生活のことしか気にならない」という国民が育っていくことを断固阻止しなければなりません。そうでなければ、国を失う危険がとても高まるからです。教育の重要性は、計り知れないものがあります。

最後に付け加えておくと、さきほど、「国民」を失うとは、虐殺され投獄され、伝統と文化が抹殺され、その生命と自由を失うことであり、「領土」を失うとは、島々をはじめ、日本本土の一部または全部が侵略国に編入され、植民地になることだ、と言いました。

主権・領土・国民という「国家の3要素」を失うのは、通常、他国との戦争により敗北するか、核ミサイル発射等の軍事的恫喝に屈服することにより、発生します。

しかし、ここに一つ非常に心配なことがあります。それは、日本人が一度、敗戦を体験しており、敗戦がどのようなものかを知っているつもりになっていることです。

たしかに日本は、アメリカに戦争で負け占領されています。ですので、敗戦とは、どのようなものかということがわかっていると思っていることです。

つまり、アメリカに負けても、一時的に制限されることはあっても、結局は主権も領土も国民も失わなかったではないか、と思っていることです。ある意味、敗戦に対する恐怖感が、あまりないのではないかということです。

しかし、ここで注意しなければならないのは、戦う相手国のことです。アメリカは、民主主義国でした。


しかし、どうでしょう?相手国が、一党独裁の国であったらどうでしょうか?一党独裁の国では、選挙による政権に対する制御が働くことがありません。

したがって、侵略国の国民に対して、どのような残虐行為を行なおうとも、これを押しとどめる誘因が働きません。

まして侵略国において、長年にわたって反日教育が行われていれば、日本人民への虐殺に反対するどころか、さらなる残虐行為をあおることは火を見るより明らかなことです。

その先に待っているのは、日本のすぐれた伝統と文化と多くの国民を抹殺され、抵抗力を失くした無気力な日本人しか残っていないということでしょう。

「国防・安全保障政策」という国家存続の最重要条件について、あらためて国民のみなさまに考えていただきたいと思っています。