待ちに待った転勤移動、卒業入学の季節がやって来た。

一年の内で一番忙しい時期である事は私も華子さんも同じである。そして利蔵も新しい入居者にガスの売り込みが忙しい。

公務員の仕事は羨ましい勤め方である。

まぁ仕事が仕事だと言われれば其れまでだが、駄目(せん)の新潟君は春休みが一番休めると、スタンドで彦さんと毎日の様に真剣な顔を突き合わせている。生物が専門の新潟君は蛍の棲める池を造りたいらしい。

其の夜、彦さんの家に新潟君は市役所の山形さんと郵便局長の福島さんを伴いやって来た。

千代さんは急ぎ徳利に酒を注ぎ鉄瓶の中に入れた、彦さんの家では今でも練炭火鉢を使っているのである。

「懐かしいなあ、俺の子供の頃はこうやって手を翳したものだ」

「此れ上手く点けないと家中に臭いが充満して、親父に拳骨を貰ったんだ、俺わ」

「ヘイーッ俺は初めて見た」

「此れは便利なんだよ、餅を焼いて食ったしスルメも焼いた。俺の婆ちゃんは此れでよく煮物を煮て好い匂いをさせていたな」

「私は今でも煮物は此れでするの、テレビを観ながらでも焦げ着かさ無いものね」

千代さんは若い時に無理をした所為か腰と膝が弱く、世情の事は友達みたいなテレビから仕入れていて何でも知っている。

五人は火鉢を囲み、杯を煽ぎながら四方山話と言うか昔話に花を咲かせ出した。

「彦さんの年齢で子供二人は珍しいんじゃないの、俺など六人兄弟だよ」

「一番上に女の子が一人居たの、七歳の時に腸捻転で一晩苦しで死んじゃった。当時の此の辺りは貧乏部落だったのよ、電話を局長さんの家に借りに行き、医者様に連れて来いと言われてから自動車を持っている人を探す始末だった。今なら死なずに済んだ病気なのに」

「俺の故郷は今でも同じだよ。電話自動車はあるけど医者までが遠過ぎて夜の雪道なら手遅れが今でも生まれるんだ。生命力の強い人しか生き残れない山ん中だもの、若い人など誰も居ないよ」

「今でこそ畑になっているけど此所は裏まで田圃だったのよ。其れが大学を創るから山を売れ、売ったと思ったら山を崩して田圃を埋めて、今度は道路を作るから畑を売れだった。目まぐるしく世の中が変わった御蔭で、息子二人を大学に出せてアパートを二つも建てられた。人間どう変わるか分らないわね」

「確かに貧乏だった。其れが大金持ちに変わり狂ってしまった者も何人かは居るな。土地どころか家屋敷まで失くした者を俺は四人知っている」

「局長さんと同じ歳かな弟の兵庫さんは。最後の子供だからと家中で切り詰めて大学に入れたと思ったら、全共闘に入って内ゲバで殺された。あの時から御父さん変わったの、身元確認の為に出向いた時の警察の対応で金輪際、国には頼らないと決めたらしいの。はっきり言わないから分らないけど」

「其れが行政の金は厭な理由か。池を造るに当って奥さんには何か注文ある?」

「強いて無いけど出来ればコロッケ場みたいに、老人の運動場も造って欲しいな」

「コロッケ?奥さんは冗談が上手いな。老人と海を捩って老人と池なんて名前を付けたら如何かな。クロッケ場から子供を見詰める老人、善いんじゃないの」

「彦さんは注文付けないけど何にも無いの」

「当面の俺は孫を呼び寄せる池だけで良い。孫が大かくなって其れから考えても」

「其処で相談だが、小学校も行政が入るから厭かい?」

「子供なら毎日来て欲しいよ。だけど万一事故が遭ったとすると所有者の管理が如何の乞うのとニュースで騒ぐだろう。あれが俺は厭なんだ」

「確かに今の二ユースには行き過ぎがあるな。知り合いに子供を一寸頼むと気軽に預けておいて、怪我をしたら責任の有り所を要求するなんて俺達には考えられないもの」

「本当だ、あれじゃあ親切心は無くなる。裁判官には人情の機微が解ら無いんだな」

「昔なら周りの人は他人でも親戚付き合いだった。其れが新しく入って来た人は親族でも裁判沙汰だもの」

新住民が多数者になった現在。彦さんには個人主義を身勝手主義者に思え、慈善者が公序を乱す張本人にされている気がして為らないと、表立った慈善を嫌がった。

「千三ツが言っていたけど、アパートの住民の中には家賃を踏み倒して逃げるだけなら良い方で、プロパンのボンベまで持って逃げるらしいな」

「何時かなんか冷蔵庫から洗濯機まで置いて逃げた人が居たのよ。あれも困るのよ、只では捨てられないし警察に相談すれば何ヶ月間は保管しろだもの」

「今までを聞いて、彦さんが臆病になるのも分るけど、俺は高校生と大学生の生物研究に池を使いたかったんだ」

「高校生なら怪我や死んだりはしないだろう」

「俺はね彦さん。大学生と高校生に最初から最後まで造らせようと考えたんだ、だけど行政の金が少しは入るから諦めて原点に帰えろうと思う」

「スタンドで言った蛍の棲める池かい。婆さん蛍を何年前に見たかい?」

「忘れたよう、山が無くなれば綺麗な水など出来ないもの。山を崩す前だから何年前になるかね」

「皮肉な話だな、自然を壊した人間が自然を研究するなんて」

「なぁ先生、老人と子供と自然をどうやって共生させる心算だい?」

其れはですねと新潟君は夜が深けるのも忘れ、老人が子供に魚の捕り方を教えられる池造りを、大学生と高校生に考えさせると便々と語り続けた。

「其れが研究なの?」

「今の大学生は老人でも子供でも無く自分だけなんですよ。自然が無くては生きられないと知りながらも年寄りの経験を聞こうとしない、だから子供を育てる考えも起きないですよね」

「随分と解った様に言うけど、何処で感じたんだい?」

「教員免許を取るには中学校の研修が有ります、あの時は自分の主張だけで他人の主張を聞き入れない風潮でした。自分だけ好ければ良い考えは怖いですよね」

「今一つ解ら無いのは、如何して岩雄や杉夫じやぁいけないんだい?」

「否いや、先生は彦さんを先頭に石川さんや秋田さんですよ。大学教師だって子供の遊び方を知らない。如何に怪我人を出さない池を造るかは、彦さん達にどの様にして遊んだかを聞かなきゃ分らないですよ。だから生物だけでなく土木と環境の一体研究に為るんです」

「何だか大層な話になって来たな」

山形さんは市の土木課でも新興都市の為、此れから環境に良い公園を沢山造らなくては為らない、安全な公園の研究にしたいと彦さんを口説いた。

「おいっ局長、お前はどう思う?」

「俺は市に補助金の形で出させたい。役人の小狡い所は僅かの金ででも出せば責任を押し付けて逃げるところだが、山形君なら其処のところは上手く遣るだろう」

「怪我をしても責任取らなくて良いなら、行政でも大学でも口を出しても良いよ。だけど行政の金だけは御免だな」

「じやぁ私と新潟君で、大学高校と市役所に話しを持ち掛けても良いですか」

「言っておくけど俺は孫を安全に遊ばさせたいだけだからね、念頭は此れだよ」

今日の花冷えは熱燗を何杯飲んでも酔わせず、五人は子供の時から現在までの話を延々と続け、帰らない燕を心配するスナック奈々からの電話で、零時に近い事を知った。


クリとリス夫婦。と、私は中睦ましい久里ちゃん夫婦を愛情を込めてこう称しているのだが、久里ちゃんには卑猥に聞こえるらしく拳を振り上げて打つ真似をする。

今年の春一番らしい南風は土埃を巻き上げる凄まじさで、ピュウピュウと唸る風音を、雀達は恐れ戦き巣に蹲っている。

私の事務所の炬燵の中にも昨夜から一匹のリスが蹲り、熊の勘気解けを待っている。

このリスは太い野郎で、婿養子の曲に彼方此方に未亡人を隠し、序に臍繰りまで隠す野郎だ。

だが兎に角働き者で、彼方に石油を配達しているかと思えば此方にプロパンガスを配達している按配で、チョコチョコと一つ所にジイッとしていない、小さくて前歯が発達している働き者である。

昨日もプロパンガスどころか後家さんの体内にまで液体ガスを配達して、久里ちゃんの熊のような太い腕で降り回された挙句、此所に逃げて蹲って居るのだ。

昨夜からの風は唸りながら看板を震わせ、ポリバケツをガラガラと転がしている。

当然ながら利蔵の悪友共はアアまたかと、久里とリスの痴話喧嘩を笑顔で傍観している。

だが隣に棲み同じ歳なのに姉のようにして育ち、不思議な縁で再会を果たした久里子の事は、私とすれば他人事では済まないのである。

利蔵は事務所のチラシを所在無げにペラペラと捲り、こんな下らねい物件で良く商売に成るなと悪態を吐き、浮気ぐらいでと悪びれた素振りを見せぬ太い野郎だ。

「他人の心配よりも自分の心配をしろ。彦さんは来ないよ、俺だって今回は取り成すなと釘を刺されて居るんだから」

彦さんは七十二歳の老人であり千代さんと二人、年金とアパートの収入暮しで、暇潰しを兼ねたガソリンだけを入れる店員である。

「お前は如何なんだ。俺がこんなに困っているのに知らん振りなのかよ」

「俺だって厭だよ。一度や二度じやぁ無いんだぞ、お前の浮気は」

「嗚呼そうだよな、お前は久里の元亭主だから俺が憎いんだ」

「また始めやがった此の野郎。イジケルのも好い加減にしろ」

道を隔てた向いには美容院を兼ねた私の家が在り、ダルマストアとダルマスタンドの隣には不動産を営む私の事務所が在る。

都心から五十分の新興都市で大学の移転と共に出来た街は、所々に畑が点在し土埃を巻き上げる街である。

道行く人々の襟を窄めさせ前屈みに歩ませる嵐の中で、バス停のベンチに座る老人は前裾をヒラヒラとはためかせて居るが、ジイッとして動かずにバスを何度も遣り過ごしている。

「あのお爺さんおかしく無い、朝からズーッと動かないわよ」

去年の秋までは何度か見掛けた異様と思える光景を、久里子は思い起こした。やはり今の様にジイッと座り数時間を過ごしたかと思うと、何時の間にか姿を消したのである。

「あの老人(ひと)は去年もああして、ジイッと座って誰かを待っていたわ」

「でも変だと思わない、此のような強い風の中で身動き一つしないのは」

出勤草々に彦さんから聞いたらしいパートの照ちゃんは、老人の異様さを強調して朝から不機嫌な久里ちゃんの気分を逸らせた。

「そう言われればそうだね、若い人でも我慢出来ない風だよね。彦さんに一寸観て貰おうか」

血相を変えた彦さんは今にも死にそうだと電話に飛び付き、熱い御

茶をと老人に指差しながら言った。

「サイレンが止まった気がしないかい」

「姦通罪でお前を逮捕に来たんだろう」

スタンドの隣に事務所を構えながら救急車のサイレンも気付かないのは、其れほど南風が強くサイレンの音を吹き飛ばしていたからである。

「煩せい、オメイもオメイなら爺さんだってそうだ。俺が居なきゃ配達が遅れるぐらい言ってくれても良いだろうが」

「少しぐらい反省の色を出せよお前は、幾ら久里でも其れじやぁ折れられないよ」

「けっ、俺は小娘に手を出したわけでは無いんだぞ、只の遊びじゃないか」

「お前は奥の炬燵で丸まっていろ、仕事の邪魔だ」

利蔵が自棄のように後家さんに走り出したのは、私が三女の美紀を養女に出す事に消極的だからである。

その美紀はチヤホヤと機嫌を取られる事を嫌がっている。だけど久里とリス夫婦には其処のところが、何度華子さんに言われても解らないみたいだ。

「アラッまだ帰らないの、好い加減に謝ったら。久里子さんも今度ばかりは頑張るわよ、選りによってあんな小娘と」

「小娘じゃあ無いよ、三十五歳の子持ちだもの」

「幼気な子持ちだから尚いけないんじゃ無いの。久里子さんの気持ちを全く解って遣らないんだから」

利蔵の反省度合いを確かめ、取り成そうとした華子さんの気持ちは萎え、利蔵どころか私の弁当まで持ち帰ってしまった。

「この馬鹿野朗、俺の飯は如何すんだよ」

「店屋物を取るよ。畜生、お前なんかに食わせたく無いのに」

私はこの際にと思い特上の鰻重を頼み、ダルマ燃料店の付けにして遣った。何と悪態を吐かれようと食って仕舞えば此方の勝ちだし、浮気をされた久里子の敵討ちだもの。

反省など何処吹く風の利蔵は飯粒を飛ばしながら、今時の若い夫婦は気軽に離婚をしてアパートに移るが金が無いと言い。ガス代の半年分で如何だと向こうから持ち懸けられたとヘラヘラ笑った。

「お前だってアパート斡旋の時に其れと判るだろう」

「お前の好色を見抜き、金蔓にしょうとして居るのが分らないのか。前にもそんな事が有って叩き出されたろぅが」

都合が悪くなればコロッと話題を変えるのは利蔵の得意技だが、流石に今日の利蔵には其の話題変えさえ出来ず、養女話に転換するのがやっとだった。

「まぁ其れは如何でもいいや。美紀ちゃんの養女話しは駄目かな、俺ぁ久里が可哀相でよう。俺じやぁ反対なのかい、遊びを止からお前からも口添いをしてくれよ」

「お前の甥子か姪子にしろと何度も言っているだろうよ」

「久里が厭だと利かないんだ。俺だってオムツから抱いている美紀ちゃんが好いんだよ。お前だって責任あるんだぞ元夫婦なんだから」

「養女になったからと言って婿を取るとは限らないんだぞ、俺の娘を犬や猫みたいに言うな。其れに俺と久里は双子の姉弟みたいに育っただけだぞ、何回も同じことを言わせるな」

スタンドでは配達の催促電話に忙殺されている事だろぅ夕刻。事務所で下らない会話を続けている処に、華子さんが困惑した顔で二人の男を連れてきた。

「お忙しいところ済みません。この老人を御存知ありませんか、手掛かりのメモには貴方の名前と住所しか無いのですが」

写真はバス停の老人であり、この他に手掛かりと為る物が無いと若い刑事は言った。

「多分、私の父かも知れません。何に分、四十年前に一度会った限で定かでは有りませんが、四十年の歳月を考えれば良く似ています」

「では現在の住所は分りますか、電話が分れば幸いなのですが。ご家族は心配しているでしょう」

「もし父ならば茨城県のOO市で呉服店を営んで居ると思いますが。其れと二度と会う心算が有りませんでしたから、電話番号は聞いて無いのです」

「そうですかご協力有難う御座います、消息分りましたら御知らせしましょうか」

「もし父でも私の事は内密にして下さい。あちらの家族に要らぬ波風を立たせたく有りませんから」

急ぎ駆け付けた久里子は、そう言われれば面影があると遠い昔を思い起こし始めた。

「間違いなく俺の親父だ。何で今頃ノコノコ出て来るんだかな」

「去年から度々バス停のベンチに座っていたわよ。そうかジイーッと此所を眺めていたんだ、貴方は気付かなかったの?」

「全く気付かなかった。今日だって刑事が来るまで知らなかったくらいだもの」

「病院に行かなくて良いの?直ぐに仕度をしょうか」

「否、いいんだ。却って遇わずに済んだ気持ちだから。今日はもう終おう、シャッターを降ろしてくれ」

華子は炬燵のスイッチを入れ、茶を入れ替え出した。

「あの老人が本当に父親なの、不義の子だとは知っていたけど」

久里子とは中学二年まで共に通った仲であり、私の出自も当然知っている。

戦前の母は中位の地主の一人娘だった。気侭な娘で女学校の時に駆け落ちをしたが、旅役者に捨てられて兄と二人で帰えった。

暫くは大人しくしていたが何時の間にか腹が大かくなり、折檻を受けてもとうとう相手を白状せずに自分が生まれた。言える事は茨城の兄と自分は種違いの兄弟だと言うことである。

戦前とは違い、戦後は農地解放により我が家の農地は総て失った。祖父母を筆頭に畑にすべく山の開墾に終始したが、母の浪費癖で見る間に貧乏になった。

売れる物は何でも売った。丁度その時に東京の治安が悪いと久里子の祖父母が屋敷の一部を買って呉れて越してきたのだった。

骨董品から着物まで売る物が無くなった時に漸く母の放蕩は治まったが、お大尽から貧乏家に転落して嘲られる自分には遊び相手が無かった。

そんな淋しい幼少期を過ごす自分には久里子が来た事が嬉しかった。

大人しい兄は学校から帰ると家の手伝いで何時も真っ黒で、恋など無縁の高校を過ごし手蔓で役場に勤めだした。

自分の就職も兄と同じく決まらずに、先生の紹介で地元の造り酒屋に漸く決まる有り様だった。

そんな或る日、母は一人の男を伴い自分を料亭に呼び出した。

父だと言う男は今まで名乗り出なかった理由を片々と語り、詫びに此れで中古車を買って勤めろと座卓に紙袋を置いた。

私の胸にメラメラと怒りが湧き上がり、座卓越しに父の顔を殴り付け紙袋を鷲掴みに盗って兄の所に一直線に走った。

「兄貴は二十四歳になってもオートバイさえ買えずに自転車で役場に通っていたんだ。其れに加え、父親の居所も判らない兄貴の気持ちも知らずに。と、思うと無性に腹が立って来てな」

私は兄に此れで車を買ってくれと泣いた。そして今から先生と酒造会社に行って謝り、東京に出て帰らないと泣いた。

其の夜、兄貴は無言で駅まで送って呉れた。言った言葉は役場に手紙を送れ、の一言だった。

三日の間、当ても無く東京の繁華街を歩き廻った。そして四日目の朝は南千住の一泊五十円のドサ宿で迎え、其の日暮しの土方の哀れを目の当たりに目撃してしまった。

何れは自分もと思った俺は、勇気を絞り出して職は無いかと宿の女主人に聞いてみた。

「東京オリンピックの前々年で景気が良かったのが幸いしたんだろうな。女主人は俺の全身をジイッと見詰めて家出をした事情を聞いたんだ」

「其れでお前は何と答えた」

「親父に三倍の金を打っ付けられるように為るまでは帰らないと正直に言ったよ。そうだろう、俺の十七年を四十万円で買うと、いとも簡単に言いやがったんだ。その十七年の間の事は金で買えるかい、怨み辛みと寂しさ羨ましさを、一瞬にチャラにされて堪るかと思ったら思わず手が出ていたんだ」

「でも貴夫の親族は茨城のお兄さんしか居ないと言っていたじゃない。嘘だったのね、親には一度しか会っていないと言ったけど其れも嘘なの」

「嘘なもんか、向こうの兄弟にも会っていないよ。不動産屋に勤められて節約と欲望の我慢で漸く金が出来た時には、親父への怨み辛みなど如何でも良くなっていた」

「不動産屋は色んな家庭の内を覗くんだよ、俺も二十四歳になって大人の考えが出来るように為っていたんだな、相続争いから土地を売る恥晒しを見せられたら、親父など如何でも良くなっていた」

「本当に会って無いのかい、普段はフニャフニャしているけど芯は強いんだな。田舎の兄さんには時々会ったけど、腰の低い人だな」

「親父に打っ付けて遣ろぅとした百二十万円は、母を放ったらかした詫びの心算で兄貴に渡した。何せ、爺ちゃん婆ちゃんから母ちゃんまで全部兄貴に押し付けたからな」

「お兄さんは何にも言わないわ、ニコニコして何にでも有り難うと言うだけの人よ」

「二十七歳で独立した時は働いたなあ、信用だけで金が無いんだ。あの頃は電車賃が勿体無かったから自転車で何処にでも行った。一日掛かりで青梅まで行って帰った時には、流石に疲れて帰った途端に其のままバタンキュウだった。だけど今思って懐かしいのはやはり子供の時だな」

「そうだったね、貴方は何時も泣かされていた。その分、私が遣り返したけどね。私はあの老人と何度か会った気がする、呉服屋さんなら婆ちゃんと行ったのかな」

「俺は怨み辛みを四十万円であの時に売ったと思っている。だから今更会わない方が良いんだ」

忘れていた父は何時の間にか久里とリス夫婦に仲直りをさせ、華子さんは本当に会わなくて良いの。と、私の複雑な気持ちを探った。


  

正月も十日が過ぎて、ハナ美容院の稼げる成人式が近付いて来た。

華子さんは、困ったな困ったなと連発をしている。

留学生が着物を着たいと予約に来たと言うのだ。

私はオオッと顔を崩した、久し振りにスタイルが良く金髪の艶姿を撮れると思ったからである。


内緒の話だが、ハナ美容院の奥には私の趣味のスタジオが在り、サービスに記念日の着飾り美容には写真を撮って差し上げているのだ。

だが残念にもまだヌード写真は頼まれた事が無く、私の腕前を世間に示せないで居る。


外人には日本で学んだ証に着物が丁度良いのか、毎年一人か二人は居るのだが今年の華子さんは浮かない顔をしている。



「大概の縮れ毛には驚かないけど今年の外人さんは、こんなに大きなアフロへアーなの。其れに身体もこんなに大きい上に太くて合わせがやっとなのよ」



彼女は頭の上に大きな輪をつくり、其の手を尚も大きくして身体に輪を作った。



久里より大かいのかい?」



「久里子さんなんか可愛いもんよ、こんなに太いんだから」


「着物が無いのかい?」


「急ぎ注文したけど問題は頭なのよ、手の施しようが無いんだもの」


「いっそ綺麗にカットしてカツラを被せたら如何だい、却って歓ぶかもよ」


「カツラって合わせるのが大変なのよぅ。其れにあんなに大きなカツラは無いと思うわ」



私は相撲取りに晴れ着を着せた姿を思い浮かべて可笑しさを堪えた。



「笑うけど私の気持ちに為って見てよ。電話受け付けだから、こんな大きな頭とは思わなかったんだからね」




華子さんは電話で受け付けた事を殊更強調し、柄合わせの今日が頭の大きさを知ったのだと頬っぺたを膨らませ、薄情な夫だと睨んだ。


「本人は何と言っているの?」


「着物だけキャアキャア騒いで、宜しくねってウインクしたかと思うとさっさと帰えっちゃったの」


「じゃあ頭は其のままで好いんだろう、黒い顔を真っ白く塗ったくり着せて遣れ。まるでデブのお化けだな」


「またそんな事を言う。本当に困っているのに茶化すんだから」



そんな此んなで当日を迎えた朝、興味を湧かす久里ちゃんの応援を得た華ちゃんは悪戦苦闘の末にやっと着せ終えたが、大型キャベツみたいなアフロヘアーの着物姿に、ブーツを履いた花嫁が出来上がった。

如何見てもデブのお化けで、まるで久里ちゃんと華ちゃんを従えた宇宙の星の王女様なのである。

日本人と外国人では美の感覚が違うのか、当の本人は至極満足らしく、ベリーナイスを連発して此れから結婚式だと言う。



「エーッ結婚、記念写真じゃ無いの?場所は何処なの?」


「うふふ、フィアンセ知らない。友達一杯ビックリよ」


「内緒は駄目よ、誰か迎えに来るの?」



大変な事に為った。此のまま見せびらかしながら大学の教会に歩いて行くと言うのだ。

私は撮りたくもないのに数枚の写真を撮らされた挙句、教会まで送らされる羽目になった。

一寸考えてくれれば分るだろうが、私の車では頭が支える上に大かい身体がドアを抜け通る事など無理なのは明らかである。

バスに乗せる他に無いのだが、バスは大学校内の教会までは行ってくれないのも明らかである。

私は急ぎスタンドに向い、配達に使う幌付きのトラックを洗車い出した。

とうとう食え無くなってアルバイトの押し売りか。

と、リスの野郎は面白がり手を赤くしながら冷たい水で洗う私に、茣蓙など無いから炬燵の下敷きを代用しろ。と横を向きながら笑いを堪える冷血動物がリスなのだ。


フィアンセの驚く様はもう、言葉では言い表せない驚き方だった。

神父様は大した御方で、失笑と歓声の混じる中でも微風のように式を始め、誓いの言葉を確認したかと思うと新婦の頬に熱いキッスをプレゼントして見せた。

キャンパスでのパーテイはニューオーリンズジャズで始まった。

大股で歩き回る花嫁に、中腰の久里ちゃんと華ちゃんは汗だくで付いて廻っている。

私はこの際にとテーブルにあるワインを飲みシャンパンを飲み、そして甘過ぎるケーキを皿に乗せて歩き廻った。

そしてカメラを忘れた手持ち無沙汰が災いし、キッチリと会費を取られた。


ハナ美容院創業以来これほどの外人さんが御客に来た事が無い、其れも結婚式が終った直後である。

彼女達の話によればボーイフレンドの目が着物に注がれ、自分の艶姿が霞んでしまったと口々に不満を言っている。

私は房子さんに応援を求めた、房子さんは局長の奥方でフランス文学を学んだ才女である。

私のフランス語なんて古くなって使えないわよぅと言いながらも駆け付けてくれ、自分勝手に喋り、日本語など解しょうとしない彼女達を上手く宥め落ち着かせてくれた。

辛うじて一人だけ英語の金髪娘が居たから待たす事を出来たが、もし居なかったら私は逃げ出していただろう。


国際色豊になった店内は着物のカタログの奪い合いである。

早速私は先ほどの花嫁さんの写真をデジカメから取り出し、壁に貼り出したが彼女達は見向きもしなかった。

流石に語学堪能の房子さんは一人、また一人と確実に要望を聞いていく。



「オオッビユッテフル、レッドカモンレッド着物」



発音が可笑しいが、身振り手振りからもっと赤い着物が好いのだと解したが、私はニコッと笑顔を作り房子さんの背中に隠れた。

もうテンヤワンヤである。着物の到着は成人式が終った二十日だと説明しだしたが、彼女たちは今直ぐに着てボーイフレンドに見せるのだと言うことを聞かない。

房子さんはフランス語と英語に日本語を混ぜて説得を繰り返し、やっと一日が終った。



果たして二十日である。

彼女達はボーイフレンドを伴い朝から集まり出した。

応援を得た華子さんは次ぎから次ぎと着せだし、私もボーイフレンドを並ばせ次ぎから次ぎとシャッターを切った。


全員揃った姿は壮快と言う外に無い。

既に着崩れしている者も居るが私は構わずにシャッターを切り捲った。

そしてボーイフレンド達はハアーと溜息を吐き、私は透かさずグットラックと言って片目を瞑って見せた。


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