待ちに待った転勤移動、卒業入学の季節がやって来た。
一年の内で一番忙しい時期である事は私も華子さんも同じである。そして利蔵も新しい入居者にガスの売り込みが忙しい。
公務員の仕事は羨ましい勤め方である。
まぁ仕事が仕事だと言われれば其れまでだが、駄目先の新潟君は春休みが一番休めると、スタンドで彦さんと毎日の様に真剣な顔を突き合わせている。生物が専門の新潟君は蛍の棲める池を造りたいらしい。
其の夜、彦さんの家に新潟君は市役所の山形さんと郵便局長の福島さんを伴いやって来た。
千代さんは急ぎ徳利に酒を注ぎ鉄瓶の中に入れた、彦さんの家では今でも練炭火鉢を使っているのである。
「懐かしいなあ、俺の子供の頃はこうやって手を翳したものだ」
「此れ上手く点けないと家中に臭いが充満して、親父に拳骨を貰ったんだ、俺わ」
「ヘイーッ俺は初めて見た」
「此れは便利なんだよ、餅を焼いて食ったしスルメも焼いた。俺の婆ちゃんは此れでよく煮物を煮て好い匂いをさせていたな」
「私は今でも煮物は此れでするの、テレビを観ながらでも焦げ着かさ無いものね」
千代さんは若い時に無理をした所為か腰と膝が弱く、世情の事は友達みたいなテレビから仕入れていて何でも知っている。
五人は火鉢を囲み、杯を煽ぎながら四方山話と言うか昔話に花を咲かせ出した。
「彦さんの年齢で子供二人は珍しいんじゃないの、俺など六人兄弟だよ」
「一番上に女の子が一人居たの、七歳の時に腸捻転で一晩苦しで死んじゃった。当時の此の辺りは貧乏部落だったのよ、電話を局長さんの家に借りに行き、医者様に連れて来いと言われてから自動車を持っている人を探す始末だった。今なら死なずに済んだ病気なのに」
「俺の故郷は今でも同じだよ。電話自動車はあるけど医者までが遠過ぎて夜の雪道なら手遅れが今でも生まれるんだ。生命力の強い人しか生き残れない山ん中だもの、若い人など誰も居ないよ」
「今でこそ畑になっているけど此所は裏まで田圃だったのよ。其れが大学を創るから山を売れ、売ったと思ったら山を崩して田圃を埋めて、今度は道路を作るから畑を売れだった。目まぐるしく世の中が変わった御蔭で、息子二人を大学に出せてアパートを二つも建てられた。人間どう変わるか分らないわね」
「確かに貧乏だった。其れが大金持ちに変わり狂ってしまった者も何人かは居るな。土地どころか家屋敷まで失くした者を俺は四人知っている」
「局長さんと同じ歳かな弟の兵庫さんは。最後の子供だからと家中で切り詰めて大学に入れたと思ったら、全共闘に入って内ゲバで殺された。あの時から御父さん変わったの、身元確認の為に出向いた時の警察の対応で金輪際、国には頼らないと決めたらしいの。はっきり言わないから分らないけど」
「其れが行政の金は厭な理由か。池を造るに当って奥さんには何か注文ある?」
「強いて無いけど出来ればコロッケ場みたいに、老人の運動場も造って欲しいな」
「コロッケ?奥さんは冗談が上手いな。老人と海を捩って老人と池なんて名前を付けたら如何かな。クロッケ場から子供を見詰める老人、善いんじゃないの」
「彦さんは注文付けないけど何にも無いの」
「当面の俺は孫を呼び寄せる池だけで良い。孫が大かくなって其れから考えても」
「其処で相談だが、小学校も行政が入るから厭かい?」
「子供なら毎日来て欲しいよ。だけど万一事故が遭ったとすると所有者の管理が如何の乞うのとニュースで騒ぐだろう。あれが俺は厭なんだ」
「確かに今の二ユースには行き過ぎがあるな。知り合いに子供を一寸頼むと気軽に預けておいて、怪我をしたら責任の有り所を要求するなんて俺達には考えられないもの」
「本当だ、あれじゃあ親切心は無くなる。裁判官には人情の機微が解ら無いんだな」
「昔なら周りの人は他人でも親戚付き合いだった。其れが新しく入って来た人は親族でも裁判沙汰だもの」
新住民が多数者になった現在。彦さんには個人主義を身勝手主義者に思え、慈善者が公序を乱す張本人にされている気がして為らないと、表立った慈善を嫌がった。
「千三ツが言っていたけど、アパートの住民の中には家賃を踏み倒して逃げるだけなら良い方で、プロパンのボンベまで持って逃げるらしいな」
「何時かなんか冷蔵庫から洗濯機まで置いて逃げた人が居たのよ。あれも困るのよ、只では捨てられないし警察に相談すれば何ヶ月間は保管しろだもの」
「今までを聞いて、彦さんが臆病になるのも分るけど、俺は高校生と大学生の生物研究に池を使いたかったんだ」
「高校生なら怪我や死んだりはしないだろう」
「俺はね彦さん。大学生と高校生に最初から最後まで造らせようと考えたんだ、だけど行政の金が少しは入るから諦めて原点に帰えろうと思う」
「スタンドで言った蛍の棲める池かい。婆さん蛍を何年前に見たかい?」
「忘れたよう、山が無くなれば綺麗な水など出来ないもの。山を崩す前だから何年前になるかね」
「皮肉な話だな、自然を壊した人間が自然を研究するなんて」
「なぁ先生、老人と子供と自然をどうやって共生させる心算だい?」
其れはですねと新潟君は夜が深けるのも忘れ、老人が子供に魚の捕り方を教えられる池造りを、大学生と高校生に考えさせると便々と語り続けた。
「其れが研究なの?」
「今の大学生は老人でも子供でも無く自分だけなんですよ。自然が無くては生きられないと知りながらも年寄りの経験を聞こうとしない、だから子供を育てる考えも起きないですよね」
「随分と解った様に言うけど、何処で感じたんだい?」
「教員免許を取るには中学校の研修が有ります、あの時は自分の主張だけで他人の主張を聞き入れない風潮でした。自分だけ好ければ良い考えは怖いですよね」
「今一つ解ら無いのは、如何して岩雄や杉夫じやぁいけないんだい?」
「否いや、先生は彦さんを先頭に石川さんや秋田さんですよ。大学教師だって子供の遊び方を知らない。如何に怪我人を出さない池を造るかは、彦さん達にどの様にして遊んだかを聞かなきゃ分らないですよ。だから生物だけでなく土木と環境の一体研究に為るんです」
「何だか大層な話になって来たな」
山形さんは市の土木課でも新興都市の為、此れから環境に良い公園を沢山造らなくては為らない、安全な公園の研究にしたいと彦さんを口説いた。
「おいっ局長、お前はどう思う?」
「俺は市に補助金の形で出させたい。役人の小狡い所は僅かの金ででも出せば責任を押し付けて逃げるところだが、山形君なら其処のところは上手く遣るだろう」
「怪我をしても責任取らなくて良いなら、行政でも大学でも口を出しても良いよ。だけど行政の金だけは御免だな」
「じやぁ私と新潟君で、大学高校と市役所に話しを持ち掛けても良いですか」
「言っておくけど俺は孫を安全に遊ばさせたいだけだからね、念頭は此れだよ」
今日の花冷えは熱燗を何杯飲んでも酔わせず、五人は子供の時から現在までの話を延々と続け、帰らない燕を心配するスナック奈々からの電話で、零時に近い事を知った。