最近、ある著名人が書き残した「エンディングノート」が話題になっているようなので、とある書店に立ち寄り「エンディングノート」を買い求めてみた。

自分の「葬儀」をどうして欲しいとか、どんな、「供養」がして欲しいからではなく、今までの生きてきた事柄を家族にも話してみようと思ったからである。


幼稚園の頃から始まり、各学校ごとに区切ってあるのでそれとなくかみ始めた・・・・。


10代20代・・・。と年齢ごとにも書き込みやすくなっていたのだが、20代の半ばから記憶が曖昧になってしまっている。


その頃から、お酒をお酒としてではなく、アルコールという「薬物」として「使用」していたということが明らかになる。


こうして、自分がどれほどの愛情を受けて生きていたかということに気づくこともできる。


「しあわせになる」ということだけを求めて、仕事に打ち込んでいるフリをして、見た目ばかりを気にしていた頃、何かが少し狂っただけなんだろうと思う。


 お酒をまだ、「お酒」として楽しんでいた頃は、「あこがれ」だとか、「目標」が確かにあったということ、「プライド」もあったし、「責任感」もあった。


 

 お酒が止められなくて、孤独で、言いようのない不安感の中でもがいていて、なんとか「お酒さえ止められたら・・・。」なんとかなると漠然と思っていたのだけれど、その過ぎ去った時間の中で、失ってしまった多くの事柄から、少しづつ普通の生活を取り戻そうとするのだけれど、そこには、「不信感」という水がいつも流れていて、埋め合わせをしようとすることを流してしまう・・・・。