私の遠近両用メガネです。

 

目の衰えを実感したのはこの1年です。

 

そもそも近視なので老眼を感じてもさほどのストレスはなかったのですが、文庫本を読むのには苦労するため、この春に買いました。

 

そもそも、私の仕事はものを読み、ものを書く仕事です。

 

複雑なやりとりはメールでのコミュニケーションが多いと感じますし、私は文書のほうがやりやすいと感じています。ポイントが見えますし、見えると解決に向かいますので。

 

中には文書を嫌う人がいます。大学でも対面を重視し、問題が解決したのかしていないのか曖昧なままでも平気な人たちがいます。結構な割合がそういう人たちで構成されます。

 

そもそも解決するつもりなんてないのかな、とも思います。解決しても評価されませんから、そのような人たちが増えるのかもしれません。

 

某大学で青酸カリを紛失する事件がありました。160人分の致死量とのこと。結局事件は盗難で犯人は捕まりましたが、青酸カリは見つかっていないとのこと。

 

この事件で私の大学でも薬品管理の責任者は心を砕かれています。管理体制といっても、結局、現場の責任者が都度施錠する、程度の手作業に頼っているからです。

 

悪意には抵抗できないでしょう。

 

いってみれば警察官の拳銃の100倍ほどの殺傷能力のある存在です。それ相応の管理体制が求められるのでしょうけれど、あまりに厳重な体制をとると研究に差し障りかねません。

 

それで頭を悩ませ、心を砕いているのです。

 

この種の仕事に実効性を持たせることは本当に難しいと感じます。せめて、言い訳を作る、という作業になりかねない。対面でいくら話し合ったところで、文書に落とし込まねば第3者には伝わりませんしね。機械ならまだしも、薬品となると実態がつかみにくく管理は難しいものになります。

 

大学職員(教員ではない)の仕事はいってみれば言い訳を作る仕事なのかもしれません。できる限りのことはしたと。

 

学生を海外に送り出す仕事も、研究を支える仕事も、薬品を管理する仕事も、いずれもありったけの言い訳を用意する。そのために目と頭と手を駆使するのです。

 

退屈が生み出した仕事、とも言えますね。みんな時間を余し、明日食う心配もない社会が出来上がりました。今の命、明日の食物を心配するようハイスペックになった人間の脳や神経系等、運動能力の使い道を求めて、想定被害者までもがその防衛のために給与をもらって取り組みます。

 

なんとも退屈凌ぎの仕事です。

 

そう考えれば心を砕く必要なんてないのです。せめて通勤経路でもかえながら、違う出来事を楽しみ尽くせば良いのです。

 

今日も面倒な仕事がいくつかありますが、そんな心持ちで向かおうと思います。