クーデターそしてクーデター | すべての答えと能力は その人の内側にすでにある。

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宣言しました、私にもわかりません、わたしが勝手にできません。3,22,2011.てふてふがベーリング海峡を渡る。

一つの聖書と宗教から、いま世界のあらゆる霊的問題に
火がついた
Greatchain
February 9, 2024
ユーチューブを利用される方は、この問題に気が付いておられるだろう。この話題はます
ます大きくなっている。結論から言うと、秘密を隠せなくなることはよい方向だと思う。
この宗教教団の名前は言わないことにする。毛嫌いする人が多いが、私と妻は、どんな話
でも聞いてみることにしているので、彼らは我々の知人でもある。これらのユーチューブ
を書く人には、聖書や宗教について、よく知り聡明な人が多いことも驚きである。その一
人が、人を批判するときには、まず敬意を払えと言っているので、私もそれに従うことに
する。私の知る限り、信者たちに悪人や傲慢な人間はいない。
まず、我々が謙虚にならねばならぬ理由は、聖書が難解で安易な解釈ができないというこ
とである。そこで、こういう話題をもち出す以上、私自身の大まかな宗教観を述べておく
のが筋かと思う。私は勿論、無神論者ではないが、特定の宗教に偏ることを極力、避けて
生きていて、いわゆる信者ではない。
そう言った上で、世界の有神論すべての本質を言い表す、最も有用で「有難い」言葉は、
「分け御霊みたま
」だと考えている。これは「どんな人であろうと、必ず(見えない)創造者の
一部を分け与えられて生きている」という意味で、これは私を百パーセント満足させる。
そして押し付けはしないが、あらゆる人がそう考えるべきだと思っている。なぜそう思う
か? それは、そう自覚することで:——生きることの責任とその喜び、神による永世の
保証、物や子孫を創り出す喜び、生きる目的と私の存在の価値、そして特に、(受動的でな
く)能動的に生きるという生き方を与えてくれるからである。この表現の中に、あるべき
宗教信仰のすべてが煮詰められて存在する。「神、聖霊、イエス(三位一体)」というキリ
スト教の表現も同じかもしれないが、神に協力して生きるという、最も重要な契機がそこ
からは欠けている。
多数のユーチューブによれば、この宗教の人々は、間違った聖書を与えられ、秘密主義の
教団の幹部に騙され、搾取されて信仰生活をしており、命令に服従しない者は厳しい迫害
を受けていると言われ、脱会する人々も後を絶たないようである。しかしそれを言うのが私の目的ではない。ただそれを言う人は、私の見る限り、ほとんど信仰者の立場に立って
同情しているのであって、信者への悪口はないと思う。
しかしこの教団が、全体として一つの病気を患っていることは否定できない。そしてそれ
は、彼らの常識を超えた教義と、彼らの用いる歪められた聖書から発している。私はここ
でも伝聞による知識は使わず、彼らの「新聖書」だけを使うことにする。ユーチューブで
ざっと見たところ、彼らを批判する人たちの問題にする聖書の箇所で、最も多かった(5,
6 か所?)のは、「ヨハネ 1・1」だと思う。我々が普通に用いる「欽定英語訳聖書」では、
そこは In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God
…と書かれているが、彼らの「新聖書」では、最初の the Word が a word となっており、
その日本語訳は「初めに言葉と呼ばれる方がいた」となっている。ここは我々の知る通り
「初めに言葉があった」でなければ意味が通らない。このように改ざんする意味がわから
ず、そもそもこれは日本語ではない。
しかし、少し考えるとその意図がわかってくる。彼らは、最初に、形をもたぬ霊としての
神でなく、人間の形をもつ神を要求しているのである。しかし、ここで旧来の聖書が「言
葉」といっているのは、形をもたない「ロゴス(理法)」のことであり、現にそれがギリシ
ャ語原本に使われている語だと言われる。ではなぜ、この教団の責任者たちは、何のため
に、わざわざこのような、狡いすり替えを行ったのか? 実は、この「何のために」とい
う言葉が最後までついて回る。
彼らは何ゆえか、霊的な神の存在を拒否している。ここでもっと初めの「創世記」の書き
出しを比較してみよう。旧来の聖書はこう言っている:——「初めに神は天と地を創造さ
れた。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた。」
彼らの「新聖書」は、これを大胆にも書き替えて、「初めに、神は天と地を創造した。地は
荒れていて何もなかった。深い水の上に闇があった。神が送り出す力が水の上を動いてい
た」としている。
ここは、普通に聖書を読む人々は、「神の霊」Spirit of God は外せないと考えるだろう――
「最初にあった言葉」と同じように。彼らの訳はそうでなく、何か物理的現象の説明よう
に聞こえる。これは私の想像では、現実に、唯物論的に宇宙の創造を説明する人々の影響
ではないかと思う。唯物論者たちは宇宙創造を説明するのに、最初に完全な静止(平衡)
状態があったが、そこへ偶然、重力のムラが生じ、それがきっかけとなって、宇宙が次々
と動き出し、今日の宇宙ができた、と言っている。「新聖書」の天地創造の記述は、それに
似ているではないか?もちろんこれは、ただの 2 例であり、彼らの大規模な宇宙創造の努力は、宇宙から「霊」
を追い出すための、必死の辻褄合わせだったと考えてよい。この類の事例をユーチューバ
ーたちは,根気に一つひとつ指摘しており、私も、聖書の記述の中に、霊や霊界の存在が
出てくると、必ずこれが修正されていることに気づいている。一つだけ例を示そう:——
「ルカ、16・23」に「そして黄泉よ み にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとその
ふところにいるラザロとがはるかに見えた」とある。ここを彼らは、「そして墓にいて苦し
みながら…」と修正している。黄泉にいて(死んだ状態で)苦しむことはない、というの
が彼らの教義の重要部分であって、これを私は何度も反論したが、ついに聞いてもらえな
かった。死ねば終わりというのは、あまりにも世界と歴史の常識に反するではないか、と
言っても、これは絶対許せない一線であるらしい。
彼らのくれた教義解説の小冊子には、こう書いてある:――「み言葉は聖書の中で、死者
の状態を説明しておられます。その教えは明快です。つまり人は死ぬと存在しなくなるの
です。死は命の反対です。死者は見ることも、聞くことも、考えることもしません。体が
死ぬとき、人の一部分といえども生き残ることはありません。人間は不滅の魂や、不滅の
霊をもっていないのです。」
これは、人は生まれたら絶望して死ぬしかない、という意味に普通の人は取るだろう。単
刀直入でわかりやすい。あまりにわかりやすい。確かにドーキンズのような筋金入り唯物
論者ならこう言うであろう。またサタンがこう言って人間を嘲笑するのならわかる。しか
し、どうしてもわからないのは、これが人々を救い、生きる知恵を与えるはずの宗教の教
えだということ、そしてかなり多くの人々がその信仰をもち、これを説いて回っているこ
とである。彼ら例えば、「私は守護霊を信ずる」と言えば、それは間違いだと言い、「自分
たちの教団ではそれは認めません」という言い方をしない。
何のためにそれを主張するのか? 何か得をすることがあるのか? これは宗教界の大き
な問題に発展するのではなかろか? そんなものは宗教の皮を被った悪人どもの所業だと
か、彼らは単に騙されているのだ、といって一蹴することはできないと思う。これをきっ
かけにして、他の宗教や聖典への厳密な見直しが始まるのではなかろうか? またこれは、
我々全体の霊的レベルの問題でもある。聖書は我々を拘束するのでなく、霊的に成長させ
る健康を与えるものでなければならない。ただ我々の懸念は、この事件の背後に、他とつ
ながった極悪人がいるのではないか、ということである。