今日は、

わたしが高校を卒業した18歳くらいの時からずっと感じていた「違和感」をやっとここ数日で「言語化」できるようになったので書こうと思います。

 

 

言語化できるまでに20年くらいかかった!

しぶとく、しぶとく、自分が感じた違和感を、内側といったりきたりしながら歳月をかけて言葉になりました。

 

 

 

 

 

 

こどものころ、

『100万回生きたねこ』を読んで、

終わりがあるって幸せなことなんだな。

神様は肉体死という終わりをくれた。それは愛なんだな。

と思った。

 

 

 

 

 

わたしは小学校3年生の時に死がこわかったのですが、

この本を読んで、肉体死にたいして、死のなかにある「ぬくもり」を感じた瞬間でした。

 

 

と同時に、

「終わりってわるいもんじゃないな」とも思った瞬間でした。

 

 

 

 

 

 

 

小さいときから「高校を卒業したら家を出ていきなさい」と父に言われ続けていたので、

わたしもきょうだいも、全員、高校を卒業するとともに家を出ました。

 

 

 

わたしの場合は大学へ進学したので、

自分でアルバイトをかけもちしながら奨学金をもらいながら

「1週間 毎食 うどん1玉」という節約生活をしながら(当時はうどん1玉が28円だったんです。笑)

夏もエアコンも使わず

4年間一人暮らししました。

 

 

その後も、

大学卒業後も、結婚したときも、離婚してシングルマザーになったときも、

実家暮らしには戻りませんでした(巣立ったので)

 

 

 

 

 

ちいさいときから「こどもからは親離れできない。だから、親が先に子離れする」というのが

父の口癖だったのですが、

今なら、父はそうやってこどもを巣立たせる寂しさを、自分をふるいたたせていたのかもなと思います。

 

 

 

同じように、わたしもこどもたちに「高校を卒業するまでしかいっしょには暮らせない」と言っているのですが、

親であるわたしのほうがいつも胸がきゅうっとします。

遅くとも20歳で家から出します。

 

 

 

特に、そろそろ義務教育終了が近づいてきた上の子とは、毎日毎日が愛おしい。

終わりが近づいているから。

巣立ちが近づいているから。

 

 

 

こどもたちを

叱るときも、

抱きしめるときも、

おしゃべりするときも、

夜、寝顔をみるときも、

確実にあと数年で巣立たせる気合いで1日1日を過ごしています。

 

 

 

同じように、上の子も、

ときおり、「お母さんと暮らせるのはあと7年だな~。〇ちゃん(下の子の名前)と暮らせるのはあと7年だな~。

今のうちにいっぱいぎゅうっとしとこう」と言いながら下の子とあそんでいます。

 

 

 

叱るときも、お互いにぶつかつときも、

その時間は確実にあと7年後にやってくるから、ここぞということはしっかり言い合う。

 

 

 

 

 
 
親はいつまでも子がかわいいし、
いろいろとやってあげたい。
たすけになってやりたいし、たすけてやりたい。
こどもが笑っている顔をつくってやりたい。
 
 
それは、どんな親も、たいがい、同じだろうと思う。
 
 
だから
こどもは成人しているのに
こどもは働いているのに
こどもは動けるのに(大病をわずらっているとか、ハンディキャップがあるとかではなく)
独身のこどもと同居をしつづけて生活の世話をしたい気持ちは、分かる。
 
 
だけどそれは
愛情はあるけど
愛はないと思う。
 
 
 
冷静に考えて、
親は確実に年をとっていく。
今日より明日。
去年より今年。
確実に老いる。
 
 
年をとっていけばいくほど、
親は病気をもつ可能性が出てくる。
 
 
そんな親をおいて
一人暮らしや結婚をこどものほうから選ぶなんて難易度を毎年上げているようなもの。
こどもにとって酷なことをしていると思う。
 
 
自分が「子離れする」「巣立たせる」という痛みを回避することは
どこかでその分がやってくる。
だれかがその分を背負う。
 
 
 
 
 
長い間、わたしは自分が18歳で家を巣立ち、その後も実家で暮らさなかったから、
だからそういうことにたいして「違和感があるのかな」と思っていましたが、
やっぱり、違う。価値観の違いによる違和感じゃない。
 
 
この時期、わたしの住んでいる集落では、
さかんにトンビがこどもを育てています。
 
 
最初のうちは、飛ぶ練習をしているトンビのこどもはとっても、へたくそ!
「大丈夫か?」と思うような飛び方だし、
「大丈夫か?」と思うような鳴き声です。
 
 
それでも、親であるトンビが何をしているのかというと、
50メートルから100メートル離れたところから、
じっと見守るのみ。
 
 
それは
こどものトンビができるからやっているのではなくて(事実、ちゃんと飛べていないしちゃんと鳴けていない)
こどもができるから手を離すんじゃない。
「飛ばせる」と決めたから。
いつまでも育てないことを決めているから。
確実に巣立たせることを決めているから。
 
 
トンビはよくいじわるカラスにケンカを売られるのですが、
そんなカラスがいても、トンビの親は見守るのみ。
それが、わたしには、同じ親として、どれだけの痛みや辛さかと思うと、動物にいつも学ばされる。
 
 
そして、
こどもは成人しているのに
こどもは働いているのに
こどもは動けるのに(大病をわずらっているとか、ハンディキャップがあるとかではなく)
独身のこどもと同居をしつづけて世話をするのは
自然界からみると不自然だ、と思う。
 
 
不自然さ。
これこそがわたしがずっと感じていた「違和感」の正体だったんだなと思う。
自然界の営みとあらがっている。
 
 
親側の「痛みを避けよう」とする姿勢ゆえなんだろうけども、
巣立ちは、こころの寂しやは伴うけど、痛みでは決してない。
「いってらっしゃい」と親がこどもを巣立たせるのは、こどもへの、最大の信頼ゆえだと思う。
 
 
 
 

 

 

この時代は自立と自律をしていることが基本。
 
 
それは家族も例外にあらず。
親子とて、例外ではない。
 
 
でも、ここをすっとばかして、
 
こどもは成人しているのに
こどもは働いているのに
こどもは動けるのに(大病をわずらっているとか、ハンディキャップがあるとかではなく)
独身のこどもと同居をしつづけ世話する人
 
親からお金や生活を援助してもらっている人
 
はどこかにかならずしわ寄せがくる。
もしくは、願いがなかなか叶わない。
 
 
 
親の責務は
いつまでもこどもを囲うことではなく
独り立ちさせてやることだと思う。
 
 
自然界を見ているとつくづくそう思う。
ツバメだってそう。トンビだってそう。
いつまでも巣にこどもを入れていない。
「巣立たせるという、終わりをつくる」愛を行使している。
 
 
 
聖書に、
愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える
という言葉があります。
 
 
クリスチャンの家庭に育ったのでこどものときから聖書を読んでいて、
この「すべてに耐える」というのが、一番、愛を端的にあらわしているなと感心していたのですが(日本語訳した人、すごい)
年を重ねてつくづくそう思います。
 
 
いいことだけ、いいきもちだけ、うわっつらだけ、は愛ではない。
こどものこともそう。
わたしは、こどもたちを高校卒業するとともに、遅くとも20歳で、巣立たせるのはすっごくさみしいし、つらい。
だけど、それでも、子の永遠の繁栄を願い、子の本来のちからを信じ、
いっさいがっさいを(巣立ちのさみしさを)引き受けようとする姿勢は、自分にたいしても、子にたいしても、愛だと思う。
愛を自分に行使しなくて誰にする?
愛を自分が体現しなくて子にどう伝える?