ぼんやりふわっと日記を書くクセがある。
歩き出しが痛くって道端で腰を曲げて伸ばして、としていたら、見知らぬ御老人が「腰痛いの? オレも痛いんだよー」と。身体の不調を話して盛り上がってしまいました。お大事に。
色々と考えたり、ぼーっとアイスを食べたり。急に贅沢に豪勢なハンバーガーを食べたりしています。
インスタント焼きそばも頻繁に食べます。目玉焼きはたまに失敗します。
先日、板橋であった、西山弁護士の学習会(入管法問題)に行って来まして。
そこでもぼんやりとゆるゆると色々な考えが頭の中を巡って。
そこからずっと考えているような、ぼーっとしているような、ひとまず自分のことをしながらいます。(また少し生活が変わる予定です)
会のはじめに、入管法を巡る様々な問題を簡潔に説明してもらえたので、メモを取り。
個人的にずっと引っかかっている問題の話題に差し掛かり、どうにもメンタルにくるので(あの事件メンタルに来ない人いるのだろうか)、クラッと吐き気を感じつつ(体調は問題ないです)... なんとか気を紛らわせて過ごしました。
そして、ワークショップ。Twitterとかでチラっと触れましたが。
難民認定審査について。チームに分かれて、模擬的に申請書類や設定を割り振った資料を読みつつ、質問したり答えたりという体験をしました。(あまり詳しく書くとこの先各地域で開催があるときのネタバレになるかぬ?)(ネタバレ嫌よという方は、読み飛ばすかサッと読んでそして忘れてください...)
私は、実際の人生が掛かった申請者の立場を意識できたわけもなく、わーわー言いながらアタフタと取り組みましたが。すごくね、後々思い巡るんですよ。
なんとかして自分の状況を解ってもらおうと言葉を募らせることを、私は非常に苦手としているんだなと、後々自覚したりしました。
以前、裁判傍聴させてもらったときにも感じたのですが(確かここにも書いたかな? 結構前に)、自分が辿った歴史を、何年何月何日といったふうに時系列の詳細を具体的に淀みなく説明できる人っているんですかね? と。
話しているうちに思い出したり、時系列行ったり来たりするのが普通なんじゃないんですかね...
事柄を述べる際に、側から見たら矛盾が生じることでも、当人は様々な理由を持って、一つの道筋といて歩んだことを、丁寧に話せば説明出来ることもある。
難民認定審査は、そういう、非常に困難な説明を、母国語以外の言葉で、場合によっては弁護士の立ち会いもない環境で、迫られるんだな...と。
(確か1次審査には弁護士立会いはないんですよね?)
ワークショップは2次審査設定だったかと思いますが。
参与員役の方にも設定があって、参考の資料がどういう方向で質問するかなど、認定に肯定的か否定的かの意識を分ける意図で纏められてあったようです。
国の都合に有益かどうかで出入国を管理し取り締まる立場なのか、難民を保護するという立場で状況を聞き出そうとするのか。そして、参与員の意見を聞いて判断する法務大臣役と。
そして、私たちは実に無意識に、立場による質問の角度の差や、発言の捉えの差を体感したのでした。
実際に支援に関わり、入管職員とやり取りした経験のある方は、その判断の厳しさを知っている故に、具体的で説得性のある説明が必要だという認識で役柄を再現してくれたように思います。
準備や予備知識なくして、針の糸を通すような日本の難民認定審査に通ることはないのだという、疑いの目を掻い潜る難しさを示すように。
はたまた、発言の背景を読み取り当事者の状況を鑑みて認定するという、難民認定がいつもこうあってくれたら良いのに...と感じさせる判定もありました。
これまで意識しなかった角度で、この問題を捉え直した気がします。
振るい落とそうとする側だけで、審査してるんですもんね、現状は。
難民条約に沿った審査定義の必要性と、とても短時間で当事者の置かれている状況を把握するのは無理...という認識を確かめるような時間でした。(国籍情報はたまに見るという参与員の衝撃発言を皆で思い出しながら)
ずっと以前から指摘されている点ですが、第三者機関による審査は、必須ですよね。
法律の問題と、現行法のもとですら権利を奪われている当事者やその家族の権利をどう守っていくかという問題と。あと、もう一つ、入管施設内に浸透してしまっていると思える、差別的意識や隠蔽体質の問題。
悍ましい事件の真相解明もせずに、この組織が改善されない状況を日本社会は容認してしまうのか、という問題。
という、当事者からは遠いところにいて、支援という立場からも遠い、ただ法律の問題と事件を外側から知ろうとする一市民という立場の私ですら、何かせんといかんという感覚にさせる、複数の課題を抱えた、この入管法の問題の途方もなさを、再認識しました。
さて、私に何が出来るか...を考えながら。
健康に生きましょう。
また。