もう30年以上まえになるけど、
ボクには交通事故で服役した経験がある。
刑務所に服役するなど、そうそう誰でも経験できるものではないし、
好んでそうする人など殆どいないと思う。
懲役を受けるくらいなので、
やってしまったこと自体は犯罪ということだから、
ちゃんと反省し、刑にも服しました。
そこでボクが感じたというか、
違和感みたいなものを覚えたこと。
それは、
社会的な判断(法律·裁判等)で課せられた罪の償い方を終えたからといって、
本当に全て無かったことのように犯した罪が清算されてしまうのか?
清算されてしまっていいのか?
ってことでした。
ボクも含めて人は完全なものではないから、
間違いもすれば、過ちも犯す。
それを悔い改めて社会で再挑戦するための判断基準であるのが懲役だと解釈すれば、
服役すること自体は必要なのかもしれない。
ただ、そこで、いわゆる刑期を終えて社会復帰したからといって、
自分の犯した罪を綺麗サッパリ忘れてしまって振る舞ってしまっていいのか?
ってところ。
正直、過去の罪に拘るがあまり自責の念だけで、塞ぎ込むような生き方というのは良くないと思うし、
逆に懲役を終えたから、罰金は払ったから、と法的、社会的に罪を償ったからとまた、自己都合的な考えのもとで生きるもどうかと思う。
両極端な言い回しになったから、表現が誰にでも当てはまるとは思わないけど、
ボクが思うに、
特に今の歳になってしみじみ思うのが、
罪を償うに至った原因というのは、
少なくとも自分以外の誰かに被害を与えたことだと思うから、
そうした行為によって自分の人生にマイナスを作ってしまったのなら、プラスにまではできなくともゼロベースにまで戻す努力は必要なのではないか?
と思ったんです。
とかく生きにくい世の中だと感じる昨今なので、
利己的に物事を判断したり、
とりあえず自分さえ良ければ…のような保身が働く気持ちも理解はできます。
ボクは先に書いた服役という経験をしたことを、どうすればゼロベースの自分にできるか、を考えると同時に、
自分という存在の意味について深く考えることがあります。
自由を前面に押し出して、自分のやりたい放題に生きることが自由であると解釈して生きる人が増えてきたような気がするこの頃ですが、
そこを訴える時に一緒に考えたいことがあって、自分はひとりでは生きられないのだから、周囲とどうすれぱ同調してやっていけるのか、ということ。
それを考えれば傍若無人な利己的な生き方が必ずしも自由と同義語ではないと気づくはずだと思います。
ボク自身が10代、20代、30代という生きる実感をモロに感じる時期に、まさに傍若無人で利己的で自分さえ良ければ、みたいな生き方をしたので、
今になって良く解ります。
人はひとりでは生きられないってことと、
たとえ地位や権力や金を得て、少しだけ自分の思い通りに生きられたとしても、
その時期は短く、やがて淘汰される。と。
立派になろう、とか聖人君子のような人になろうとか言うのでなく、
満たされた人生を思うなら、
自分のバロメーターを確立することが大切です。
法律とか裁判による判決っていうのは単に平均的ルールであるから、
従っていればそれなりに社会では生きられますが、
自分の気持ちや思いの中に蟠りがある以上は満たされた人生も、自由も満喫できないように思います。
懲役という、好んでできることでない経験をしたおかげでそんな考えができている自分が今あるワケで、
自分以外の誰かに迷惑をかけたという代償に得られた気づきのおかげだとボクは考えてます。
学校で教わる勉強は、誰にでも同じことを教わるのですが、
価値観とか感受性とか経験値というものは他者から教わることができない貴重な自分だけのモノだから、
大切に自分の成長に使えれば、と考えます。