いろめがね。
って言葉は古いのかな?
フィルターにかける。
って言えば分かりやすいか……
ボクも含めて、とかくやっちまいがちなのが、これなんじゃないかな?と。
「あそこの店は、あまりいい噂を聞かないから、行かないほうがいいよ」
と周囲から言われれば、
「そうかな?」
と思いつつも、自分の中のフォルダの中でちょっと脇のほうへよけてしまう。
実際に自分と会ったこともあり、話したこともあり、特段相性が悪いとは感じない知人が、
別の場所で、あまり良くない性格だと噂されているのを耳にすると、
「まさか」
と思いつつも、また自分の中のフォルダの脇のほうへよけてしまう。
身近な例ならこんな感じ。
もっと大きな例えで言うと、
◯産党は赤だから、良くない政党だ!
とか、
新興宗教は問答無用でカルトだから悪だ!
とか、
北◯鮮はとんでもない国だ!
とか。
ボク自身の経験として、
概ねこのようないろめがねは、
もっともらしい見解を前提に広まってしまった噂や、
自分以外の人が体験した体験談であることがほとんどで、
実際、自分が同じようなシチュエーションに遭遇しても、
全然違う結果や、見解に至ることが多い。
差別や偏見はダメだと思いつつも、
人間の防衛本能なのか、
知らぬ間に自己フィルターにかけてしまって、正しい判断ができてなかったりする。
「ホントかな?」って、自分が疑問に思ったら、
自分で試してみる。
自分で体感してみる。
って行為も、時として必要なのではないか?
って、最近常々思います。
「経験則」って言うのか、
歳をとると、どうしても自分の考えが正しいとか、曲げたくないとか思いがちで、
なかなか柔軟に判断できなかったり、しようとしなかったりする。
そんな偏ったモノゴトの見方、フィルターのかけ方では、
やっぱ正しい判断はできないし、
判断力は養われないだろう。
と思います。
経験則も必要だし、フィルターも必要だと思うけど、
結局自分の人生に於いて、最終決断を下すのは自分なんだから、
偏りのない判断力を養わなければダメだと思う。