昔、ボクが高校生くらいだった頃に、
何かのマンガで、こんな字を見た。
「足るを知る」だそうです。
当時のボクにはいまいちピンとこなかったのですが、
あれから30余年経った今は、なんとなく
分かるような気がします。
ちょうどこの字に出会った頃というのは、
皮肉にも世の中は
大量生産、大量消費がもてはやされ、
モノを大切に扱うということが、
時代遅れでカッコ悪いような風潮まであったように記憶しています。
愛着があって、自分の気に入ったものを大切に扱う、
故障したり壊れたりしたら、修理しながら使う、
そうすることによって更に愛着が湧き、
良いモノであれば一生モノにでもなり得るモノだってあったのは、
もう少し前、ボクが小中学校くらいの時代だったような気がします。
ボクは中学生の頃、オーディオセットが欲しくて、親に内緒で新聞配達のアルバイトをして、お金を貯めて買ったことがあります。
当時のオーディオとは、いわゆるステレオと言って、アンプ、チューナー、カセットデッキとレコードプレーヤーがセットになって、
重い木目調のラックに組み込まれたシステムコンポと呼ばれていました。
一体化のモノでなく、それぞれ単体のオーディオがラックに収納してあり、
両サイドにはスピーカー。
存在感は結構なものでした。
同級生の家には親が買ったステレオがあるけど、ウチはそれほど恵まれてなかったから、買ってくれとも言えず、
それでも欲しかったから、約2年、新聞配達だけで貯めたお金で大きな買い物をした、初めての体験でした。
中学生の頃の新聞配達では1ヶ月働いても、1万円そこそこの給料しかないので、始めた頃は、果てしなく未来の先の夢みたいな感覚でしたが、それでも2年経って貯金が10万円を超えた頃には現実味を帯びて、ソワソワしながら、ヒマさえあれば家電量販店に目当てのステレオを見に行くようになってました。
モデルチェンジ前の型遅れではありましたが、新品のステレオ。
128000円。
購入金額が達成した翌日に、
オヤジにこれまでのワケを説明し、一緒に電気屋へ行き、
8000円はオマケしてもらい、
2年間の新聞配達の成果が、
ステレオとなってボクの部屋へ。
達成感と、感動と、
「自分の財産」的な充足感を、
50歳を過ぎた今でも覚えているほどです。
その数年後あたりから、今で言う
ミニコンポが登場し、
一体化されたコンパクトなミニオーディオが主流となり、
いつしかミニコンポが主流となり、でかいだけのステレオが時代遅れになっていったのですが、
高級感だけはミニコンポに負けないし、
何と言っても自分の財産のように感じていたので、高校を卒業するまでの約5年間、
愛用し続けました。が、
愛着もあるが、故障もある。
チューナーもアンプもカセットデッキも特に問題はなかったんだけど、
レコードプレーヤーだけは回転数が乱れて
早くなったり遅くなったりするようになり、
微調整も効かなくなると修理に出すことになる。
買い換えるという発想もなければ、
当時はリサイクルショップなども田舎にはあまりなかったので、
修理するのが普通と考えていた。
そんな学生時代を経て、20歳を過ぎたあたり、
先のミニコンポが主流になり始めた頃から、
韓国製という、見た目とは裏腹に値段の安い電化製品を見かけるようになり、
その頃から大量生産、大量消費の時代が始まったんじゃないかと思ってる。
修理なんて、治るまでに時間もかかるし、
値段も安くなったから、買い換えたほうが早いし、お得。
みたいな流れで、家電といえど使い捨てみたいな時代になった。
あれって何だったんだろう?
と、考えていたが、
あれが時代の副産物なのではないか。
と思うようになり、
なんとなくあの頃から日本がおかしくなったような、
妙な違和感を持つようになった気がする。
足るを知ることを忘れ、
贅沢することが幸せなことだと勘違いし、
次から次へと大量消費。
その傍ら、リサイクルショップなんかには新品や新品同様のモノまで普通に並ぶ現在。
断捨離でモノを手放すことを訴える傾向もあるけど、
物欲にまみれた気持ちの現れが、
現代の人間関係の希薄さというか、
利己主義的な時代を創ったとも言えるんじゃないかな?
って思う。
しみったれた、不潔な貧乏は当然いやだけど、
足るを知るっていうのはそんなんじゃなく、
必要最低限で工夫しながら生きることで、
且つそれが充足感を得るコツなんじゃないか、と、
なんとなく思うようになった。