複数の人が集まって物事を决める際に、
多数決という方法が多く、またそれが妥当だと、殆どの人が思っているだろうし、
実際に行われてもいる。
満場一致という結果ならともかく、
多数派でなかった、即ち自分の意に反した結果となった側からすれば、
釈然としないままに決定されたことに従わざるを得なくなる。
おおよそ、この多数決と言う物事の決め方が手短で、多くの賛成を得る方法としては合理的ではあると思うが、
「後に責任を求められる」事案であった場合はどうなんだろう。
という疑問が残る。
恐らく多数で決めた事だから、皆で責任を、とはならず、先ず指揮をとった代表者なり議長などが責任を求められる矛先になるのではないか。
多数側に挙手した人の中には、周りに挙手した人が多いからという理由で、信念も理由もなくただその場の流れに流されて賛同した人もいるはずである。
多数派=優勢
という図式が頭に浮かぶ人も結構いるとも思う。
ボクがここで思うのは必ずしも
多数派=優勢ではなく、
さらに
優勢=正しい
とは限らない、という事を理解しなければ、決議をするうえで、間違った方向に進みかねないことがあるという問題です。
例えるなら、地上数十メートルの高さにある吊り橋を渡るか渡らないか、という事を多数決で決めた際に、
渡る、に賛成した人が多数派だったとしよう。
止むなく従わざるを得なくなった否定派も、そこにはいるはずだから、イヤイヤながらも渡ることになる。
全員が無事に吊り橋を渡り終えれば問題なく事は集結するが、
肯定派(賛成派)、否定派(反対派)問わず、もし一人でも吊り橋から落下してしまった人がいた場合、責任の追求とともに数少なかった否定派の正当性が凄く大きなものにならないだろうか。
そして、事の正否に限らず多数派であった肯定派は、うしろめたさを感じながらも判断が間違いだった事を素直に認めるだろうか。
全ての人ではないにしろ、恐らく多くの人は落下した人の注意が足らなかったとか、自分だけが悪いんじゃないとかの自己保身に走るのではないか、とボクは思う。
これが「吊り橋」の例えだから、被害者は一人であり、多くの犠牲者がいないからいい。
これがもし、吊り橋が渡っている途中に吊り橋ごと落下してしまったとか、
現実に起きたワクチンの話しであったらどうだろう。
現実、多くの被害者が出ている。
責任追求とか事の正否を議論することは必要だと思うが、それより大切なことは、
多数決での結果が必ずしも正しいワケではないと言うことと、
場の雰囲気や、多数決に紛れた怪しい安心感で、自分の判断を誤ってしまうのは、
本末転倒であり、愚である。
ということ。
自分で考え、自分で判断し、自分で行動すれば、責任を他に求める必要もないし、
ある意味、自己責任という自己完結ができるから、他を恨むことはないと思う。
今の時代、自分で動けばある程度の情報は得られるのだから、
「おかしい」とか「気が進まない」とか、自分に躊躇いがある時は、多数決に頼らないほうがいいんじゃないか、と思う。