「考える」力について | 風丸の駄文

風丸の駄文

いろいろと駄文を重ねてます。
共感、反論あるかと思いますが、ご容赦ください。



人生論とはやや論点が違うが、

歳を重ねることによって自身が結論付けたこととして話そうと思う。

人というのは意識的にも無意識にも、
ほとんどの時間「考える」という事をしているように思う。

無意識であるか、意識的であるかは置いておいて、この「考える」という行為が人の進化に大きく影響しているのだと不意に思った。

あらためてそんなこと言わなくても、解りきったことではないか、と思われるかも知れないが、

「解りきったこと」として片付けてしまうには勿体ないと思ったので、ここに記すことにした。


私は「考える」=「知恵」だと考える。

ちょっと哲学的に聞こえるかも知れないが、私の戯言なのでそこまで難しい話しではない。

地球上の「人」と定義づけられる者達に共通する行為、「考える」

もしかしたら他の動物や植物にもあり得るのかも知れないが、今日はそこのところは割愛する。


その、地球上の人は当然ながらそれぞれ時間軸も環境も違うから、考えること自体も似ていることはあっても全く同じことはあり得ないのだろう。

ただ、似たような環境に置かれた人はやはり似たような考えをすると思う。

例えば夏の暑い日を如何に涼しく過ごすか、

冬の寒い日をどうすれば暖かく過ごすか、
など。

日本には四季というものがあるから、日本人なら当然、四季に応じた過ごし方を考える。

しかし、常夏の国や赤道に近い年中暑い国の人は、寒い日をどうすれば暖かく過ごすかなどと考えるだろうか?

そう考えた瞬間、考える事柄が多いほど人には知恵がつき、知恵を駆使することによって進化を遂げてきたのだと、

まあ、当然と言えば当然のことながら納得した。


よく日本人は他国に比べて賢いとか知恵があるといったことを耳にするが、それは他国にない四季も多少影響しているのではないか、とも。

単純な発想ではあるが、常夏の国などの年中暑い国の利点、難点も、年中寒い国の利点、難点も同時に体験し、季節の変わり目までも体験し、過ごし方を考える。

逆を言えば考えることをしないでいると、人は退化し、人としての価値も知恵もないモノになってしまう。…のではないか。



そんなことを考えていて、ふと現実をぼんやりと思い返してみると、

深く考えようとしないで、適当にその場その場をやり過ごしていると、時間が無駄に過ぎてしまうだけでなく、

溢れる情報に流されて、自分という軸が失われてしまうのではないか、という不安のようなものがよぎった。

目の前の現実全てに意識的に考えを馳せる
ことは無理にしても、

自分が興味を持った事象やモノに対しては、考えるということを少し掘り下げるけとをしたほうが、心が豊かになるのではないか、と、

考える。