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 はあちゅうというブロガーが以前から、童貞に関するツイートをしていて、それが自身のセクハラ告発とあいまって話題になっている。

 セクハラ告発に関しては、いずれは誰かがしなければいけなかった事であり、多少プロセスに問題があったにしても、こういった現状があった以上、ある程度は仕方がないだろう。

 童貞いじりにかんしては、確かに誰かを傷つける可能性はある。中には精神疾患でやむを得ず童貞のままになってしまった人もいるだろう。ただ、仮にそういった事を勘案したとしても、あくまで個人的な感覚として、普通の人間が生きて、セックスの相手が居らず、通常の男性ならマスターベーションをするだけの事を、そこまで悲劇的に扱う必要があるのだあろうか?

 童貞に関しては特に非モテコミュニティの中で流行っていそうないわゆるエロゲーでは頻繁にモチーフとして描かれているらしい。私はあまりああいうゲームはやらないので詳しくは知らないが、虚淵玄が好きなあるエロゲーは冒頭から、タンクトップを来た腕っ節の強そうな女性の「あー!童貞くいてー!」という一言で始まるらしい。これも一種のジョークで、いい年をした男性同士ではおおっぴらに口にすることはないが、若い時なら、様々なシーンでそういう冗談はいうものだ。

 一般的に中学生くらいならほとんどの男性が童貞だろう。そういう時なら仲間内でフラットにそういう話題を話せる。頭がエロでいっぱいでそのくせバイタリティーだけはあって恥を知らない年代だ。誰でも男性なら、そういうことを話したことぐらいはあるだろう。

 こういう経験のある男性が、一概にマジョリティーであり、マチズモの塊のような人生を送っているとは限らない。

 少し気になったのは今回この話題に積極的に、特に差別に関して発言している面々に、女性が多い事だ。文脈から見て、はあちゅう氏は決して童貞を批判しているわけではなく童貞をコンテンツとして楽しもうとしているようで、こういったことは、みうらじゅんや、一部のオープンな女性たちがやってきたことで、今更はあちゅう氏だけを批判するのは筋違いだ。まぁ、広告業界や出版業界には様々な思惑があるもので、私が知らない事情もあるだろうが、私がこれに関し言いたいことは、やはり、普通の女性には男性というとマッチョコミュニティだけを想定してしまっていて、そうではないコミュニティーにもそれなりのセクシャルな話はあるもであるという事だ。ただ、第一線で活躍する女性にはそういう男性のリアリティが見えずらいということもあると思う。

 基本的に私は「自分のことは自分の言葉で語る権利があり、それを制限することは主権の侵害である」と考えている。私は依然、自分の事を「埼玉の土人」とツイートしたことがあるが、一部でその言葉の使い方に批判があったらしい。確かに私は厳密にいえば先祖代々埼玉に住んでいるわけではないので、埼玉の土人ではなかったかもしれない。だが、成人して大分たっても日本国内だけで生きてきたことは確かで、その人生の大半を埼玉で過ごしたことは紛れもない事実だ。仮に私の出自に何かわたしの与り知らないことがあったとしても、それは私の責任ではく、当事者の主体をないがしろにして他者が自己規定にああだこうだというのはパターナリズムではないか。

 黒人が黒人同士では「ニガー」という言葉を使い、それ以外の人種には使わせないのは、「自虐だろうだなんだろうが、自分たちの言葉は自分たちで決める」という意識の表れだろう。「黒人は口がうまい」といったステレオタイプを文化として共有することでヒップホップというジャンルも成り立っているし、それに対する反発も同時に人間の現実なのだ。文化を生み出すという行為に留まらない、人間が生きる上での、コミュニケーションの現実なのだ。

 私は基本的に、童貞であろうが障碍者であろうが人種であろうが、属性そのもので、触れてはいけないものなどないと考えている。仮に精神疾患をわづらった成人男性が童貞であることを悩んでいるドキュメンタリー番組を真面目に作ったとする。ではその真面目なドキュメンタリーをみて、余計に傷つく男性がいないといえるのだろうか?ジョークにした場合と、真面目に取り上げた場合、どちらがより良い影響を与えるかということは、実証不可能だろう。だからと言ってその手前の教条主義で止まっていしまってよいのだろうか?だれもふれなければそれこそなかったことにされてしまう。取り上げ方がよいか悪かだけが議論に値するのではないか。

 というわけで時間が空いたら小谷野敦の童貞放浪記でも読んでみようかと思う。あまり童貞を扱った文学というのないので参考になるかもしれない。