再生の物語です。

ようやく視聴できてよかったです。昼夜の区別なく、映像がきれいでした。ストーリーは、わかりやすいです。

わたしは、博多弁や関西弁が乱れ飛ぶ学校にかよっていましたので、コトバはすんなりと頭のなかにはいってきました。

最後の10分ほどで、話に決着がつきます。

堤防から内海がみえていて、その堤防の高さが、充分なものであるのが良いとも思いました。

棋譜は、反転させることができます。しかし、これは本物の反転ではありません。このことは、楽譜にある音符を逆行するときにも同じことが言えます。時代は変わっていて、録音をさかさまにたどることが可能ですが、音の列は音符の順に楽譜通りに反転させても、ニセモノの反転にしかなりません。

アンドレイ・タルコフスキーは『鏡』を創作するときに、このことに気が付いていたはずです。そして、より直接の認識は、セルゲイ・エイゼンシュテインにおいて得られていたはずです。

トマス・ア・ケンピスです。

 

この姿勢が、どこかにないと信徒ではないでしょう。それは、比喩の多用や、祈りの形式などいくらでも特徴は挙げられますが、社会に相対する姿勢が欠落している信徒は、存在しないのです。

 

たとえば、漱石に関して、寺での修行に、おかしなことを感じるのは、キリスト者ならではかも知れません。あれはいったい何をしに行ったのでしょうか。