50代半ばにして再就職した現職場。
丸2年が経過する中で、当初のアンチの空気はなくなったけれど、私が雑談に参加することはない。
そもそも皆が雑談すること自体少なく、仕事の会話以外は黙々と勤しんでることが多い職場なんだけど、それでも雑談が繰り広げられ、各々の世界観が垣間見れる時がある。
耳には入ってくるので、面白い話には心の中で笑い、共感できる話には「分かるわぁ~」とか、ツッコミどころには「なんでやねん!」とか、心の中で呟きながらポーカーフェイスで働いている。
そんな時間は嫌いじゃない。
もともとの自分の性格からいうと、発言権が許されるのなら、気の利いた話を無理して考えたり、発した言葉でたまには後悔したりしただろうから、権利が全くないというのは考えようによっては心の平穏と言える。
そして、参加せず「ただ聞いている立場」というのは、相手の世界観を理解することとシンプルに繋がっていて、相手の思考パターンが分かれば、それが自分と違う価値観としても反発までには至らず。
まして仕事以外で接触しない人と割り切れば結構淡々と居れるものだというのは現職で気づけたことだった。
時に「私の中にはその考え方はないなぁ」としんどい意味で思う時は、思想に正解はないことを念頭に、「そもそも考え方が違うから自分と相容れないんだ」と納得できている。
また、静かに過ごすことは「そう言えば昔あんなことがあったなぁ」とか
「あの時の私は幼稚だったな」「相手に失礼なことをしたんだなぁ」とか…
自分の過去を思い出して回顧し、時には猛省する時間にもなっていて「これからどう生きたいか」を考えることに繋がっている。(少なくとも、年相応の落ち着きと良識ある言動が出来る人になりたい…と猛省後は強く思う)
言葉は人を傷つける刃にもなるから、職場で沈黙を求められてることは平和でもある。
愚痴をこぼしたり人をジャッジする言動をする権利がない分、ある意味「美しい人」で居られていると思う。
ただ、人となりを理解しあって関係性を築くことが本来の職場の在り方だと思うと、自分を理解してもらうチャンスが全くないまま「何を考えてるか分からない人」になっていることは残念なのかもしれない。
物事には必ず二面以上のものがある。
客観的に見ると、職場で沈黙の場を与えられたことは、自分の人生の中で「今」が学びの時期なんだと思えていて、この経験はこれからの人生で輝くものに変わってくれそうな気もする。
沈黙を「金」にするか、停滞して腐敗したものにするか、結局、最後は自分自身に懸かってるんだろうな。
だからこそ、静かに過ごしている時間も「かけがえのない時間」として大事にしたいと思う。