母からの学び | 山紫水明〜自然と心を繋ぐyoga〜アラフィフ世代ナチュラルエレガントな女性になろう!

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半世紀以上生きてしまったヨガやフィットネス・アップップメソッドJJ、趣味などを通じて皆様が見た目プラス本当のエレガントな女性を目指すコミュニティ作りを目指しています

akkiです。

 

すっかりご無沙汰もご無沙汰で🙏

見に来て下さる方々ありがとうございます。



 

以前、私を語るとき

不妊治療

着物

ヨガ

 

とお話ししました。



 

今日は母🤱のこと

 

私にとっては母は

大好きで私を一番愛してくれている人

でもありますが

私を苦しめていた人でもありました。

 

 

今、思えば私の取り方しだいだったと思います。

でもね。

あの頃の私を愚かとも思わず、責めることもせずに抱きしめて背中をさすってあげたい

そんな風ににも思います。

 

 

 

 

私を語るのに外せない母が先日、他界しました。

 

 

あっちの世界にいくとすべて帳消し、良い思いでしか残らない傾向にありますが、毒母に思えた母についてもいつか書いていこうと思います。

 

 

こんだけの説明だとわかりにくいと思いますが、

環境ってすごく影響力があるので、父と母の下に育った私はその影響をとてもうけている訳です。

 

『毒母』って思うぐらいだから

子育てって親のエゴだな~~~と思っていたわけです。

 

そして、年老いた両親をみてきて、老後、死に方は子供のエゴだな~~~と思っていました。

 

 

よく、生まれてくる時は、その親を選び今世、どんなふうに生きていくのか青写真を自分で決めてきてる!ともいいますが

親のエゴも含めてなのか?は微妙と思っているし、身近な人に迷い道くねくねしてる人(私も含め)翻弄されている人も多いからです。

 

 

そして、逝きかたは意識不明状態が続くと子供たちの意見が尊重される傾向が多いから。

 

 

でも、母の死で

逝きかたも自分の意思なんだ!と知ることができました。

それは生前、母がちゃんと自分の意思(軸)をもった生き方をしたからもしれないし、

みんな、そうなのかもしれない


今日は母の写真を大公開しちゃいます。😍



こちらは↑頭も身体も元気な頃の母

2016年くらいかな?



母が84歳の

4年前にクモ膜下になり手術しました。



手術は予定より時間はかかったものの成功しましたが、なかなか意識が戻らず

戻ったら認知になってしまっていました。



手術前も意識はハッキリあって頭もしっかり

耳が、不自由だったので病院の検査等で補聴器を外され、ちゃんと手術の説明をしてあげなかった事を今も後悔しています。

手術室に向かう時に

『84歳手術必要?でも頑張るよ!』と言った事が

耳から離れませんでした




元気なころ最後に会った時のもの

2020年の2月かな?

2人でアプリで遊んでみました。

施設で穏やかに過ごしてましたが

昨年の3月に脳梗塞になってしまい

お医者様からはもうこれは意識がない状態です

と告げられるも、自力で呼吸ができている状態でした。


頭も身体も元気な時に

延命治療は嫌

みんなに迷惑をかけたくない

と言っていた母でした。


延命治療の線引きをどこにするのか?

というのは難しく


胃瘻にして施設に戻る

看取りにする

転院して少しでもの回復を望む


その選択を迫られ、兄弟とその連合いで話し合い

鼻からの栄養補給は辛いと聞きながらも

転院して少しでもの回復を望む選択をした私達でした。


予想外のコロナ禍で転院後は母に会えたのは

散髪の時の1回だけ寂しい思いをさせてしまいました。


今年の3月に胆石が悪さして容態が悪くなりましたが転院先の早い対応で回復出来ました。


ここで先生から手術の提案を頂き、zoomを使って家族で話し合い、悩みました。

話し合っても決めかねるところもあり、

疑問に思っている事を直接先生から聞いて

手術した方が楽だよ!という事で

手術を選択しました。

(先生の話を病院で伺ったので母に会う事ができました)

だけど、受け入れ先の病院に拒否され手術はなくなりました。


6月鼻からの栄養の管から炎症が起きてしまい胃瘻を提案されました。

胃瘻=延命 の考えが強かったのですが

また、話し合って胃瘻に決定

(ここでも先生から直接聞いて母に会えました)

熱海の土石流の関係で延期に


ずっと落ち着いてましたが

7月オリンピック開会式の頃に容態が悪くなり、看護師さんの判断と計らいで家族みんなが会う時間をとって頂きました。


子供達が決めてきた事ですが、私個人としては

決めかねる事ばかりなので、毎回

母の耳元で

『自分で決めてね!』と伝えて来ました。

最後7月に会えた時は

頑張ってね!

もう頑張らなくてもいいよ!

と真逆な言葉を伝えて来てました。


それから約10日間 容態が落ち着いて

次の治療に入るべく兄が同意書を書きに病院に行く事段取りをつけてました。

その旨を看護師さんが母に告げた1時間後に

兄も間に合うことなく一人で逝ってしまいました。



母が良く言っていた言葉

物は言いよう

物は取りよう



この言葉を借りて、母の最期を考えた時


子供達が後悔しないように母が決めたんだなぁと

思いました。

そして、嫌と思っていた事はやらなかった




家族、付き合う人達 環境の影響はとても大きいけどそれさえも自分で決めた事なのかもしれない


その環境に振り回されない強い心を持つこと

持てること

をその逝き方で教えて貰った気がします。





お母さん 

ありがとう

頑張ったね



良い事も悪い事も教えて貰いました。

まだまだ、話したいことはたくさんあるので

またの機会に語らせて頂きます。