160918 --- 真田家と愉快な仲間たち ---

1582
0602 本能寺の変
0612 小県国衆まとめあげ
0619 北条氏直、上野侵攻 滝川一益破る -- (神流川の戦い)
0621 昌幸、叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回
信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備固め [ --- > 2016/2/20放送ここらへん ]
上杉景勝も北信進軍
0624 上杉景勝、長沼城入城 昌幸、上杉に付く
0709 昌幸、北条氏直に付く
0712 北条氏直、川中島に進軍
   上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かう
   [ --- > 2016/2/28放送ここらへん ]
0925 昌幸、沼田城に戻る
佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る
1019 禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行う
1029 若神子で徳川軍と北条氏直が和睦 [ --- > 2016/3/6放送ここらへん ]
昌幸、上杉景勝に臣従 [ --- > 2016/3/13放送ここらへん ]

1583
上田城の築城に着手
昌幸、家康和睦 [ --- > 2016/3/21放送ここらへん ]

1584
0301 小牧・長久手の戦い
昌幸、沼田・吾妻の所領を改めて確保
小県郡を完全掌握するために謀略を用いて室賀氏を滅ぼした
沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握
1201 家康、秀吉と和議

1585
0401 家康、昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求める
昌幸いやじゃと断る
昌幸は家康との手切れを決断
0715 徳川軍の侵攻に備えて信繁を人質にして上杉景勝に従属
[ --- > 2016/3/27放送ここらへん ]
0801 徳川家康と北条氏直 VS 昌幸 : 第一次上田合戦
昌幸、2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝
(第一次上田合戦)
[ --- > 2016/4/03放送ここらへん ]
上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知される
家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化
氏直は沼田攻めを手掛けるも、失敗
冬 : 信繁 : 上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂移動
堺くん、大阪きたん?

1586
昌幸、 佐久に侵攻
0525 北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退
[ --- > 2016/4/24放送ここらへん ]

0701 家康が昌幸征伐のために甲府に出陣
0807 家康、秀吉の調停を受けて真田攻めを中止
1104 秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となる

1587
0318 昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見
その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となる

1589
秀吉による沼田領問題の裁定実施
北条氏には利根川以東が割譲
昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る
この頃、昌幸は在京
1101 北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされる
この名胡桃城奪取事件の際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は
昌幸に対して責任を取る形で自害
(名胡桃城奪取事件)
1213 秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発する

1590 小田原征伐
0108 昌幸、秀吉から3か条の条目を受ける
0301 上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り
北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻撃
0429 秀吉より昌幸へ仕置
以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下
昌幸、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参加
浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退される

<以下 160605追記>
0327 秀吉沼津到着
0328 - 0420 小田原包囲戦
0329 - 0624 韮山城攻撃
0329 進撃開始
進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始
0401 足柄城を落とす
0403 小田原に先鋭豚到着
0509 北条と同盟を結んでいた奥州伊達政宗が、秀吉参陣要請に応じて小田原へ : 白装束やね
0519 - 0522 岩槻城攻撃
0514 - 0614 鉢形城攻撃 真田昌幸3,000人編成、上杉景勝10,000人
0614 鉢形城開城
0605 - 0717 忍城攻撃 石田三成1,500人、直江兼続3,000人、真田信繁3,000人
0623 八王子城攻撃
0624 韮山城開城
0626 石垣山一夜城が完成
0705 氏直、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出。秀吉に氏直が降伏
0707 - 0709 片桐且元、脇坂安治、榊原康政を検使とし、小田原城受け取り
0709 氏政切腹
0716 忍城開城
<以上 160605追記>

昌幸は秀吉から旧領を安堵 ... 家康牽制の一端を担う
昌幸は家康の与力大名から、正式に豊臣系大名として取り立て
-> 子会社の部長より、親会社の役員に
安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、
信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立
大泉さんは内野聖陽の配下へ

1592 文禄の役で肥前名護屋城に在陣
昌幸、秀吉の命令で500人の軍役が課される
16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成

1593
0829 昌幸、家康と共に大坂に帰陣
昌幸、渡海しなかった代償として伏見城の普請役の負担を命じられる
豊臣秀頼誕生

1594
1102 昌幸、軍役や普請の負担の功労により
秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓
信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた

1597 秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると
その所領没収の処理を浅野長政と共に担当

1598 関ヶ原の戦い
0801 秀吉死去

1600
0701 家康、は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ
在京していた昌幸も追従
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し
諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作開始
昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取る
宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に与し
上田城へ引き返す
昌幸は信幸・信繁と去就会議を開き、信幸は正室が本多忠勝の娘である事を理由に
昌幸を家康軍に
0906 秀忠、上田城攻略を開始 (第二次上田合戦)
昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃つ
秀忠はまず、真田信幸と本多忠政を使者にして昌幸の帰順を勧告
昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せ時間稼ぎ
土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発
秀忠軍を城攻めに集中させる手をとる
信幸、が上田の支城である砥石城に攻撃
昌幸、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため
同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退
昌幸、徹底した籠城策
0909 秀忠、城攻めに手を焼いて小諸に撤退
徳川方の史料「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」
0901 秀忠、関ヶ原の戦い本戦に遅参
家康 関ヶ原勝利
家康、昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下す
昌幸、討死覚悟で籠城する決意
東軍に属した、信之&&舅である本多忠勝(本郷猛)の助命嘆願で助命
高野山への蟄居
1213 昌幸、上田城を発して高野山に向う
昌幸正室(高畑のおばはん)上田残留
以下、高野山組
信繁とその妻子
池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門
田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門
河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人
前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵
信之と別れの対面をした際の昌幸のつぶやき
「さてもさても口惜しきかな。内府(家康)をこそ、
このようにしてやろうと思ったのに」
現代訳:
「あーうっとしいいわー、あのぼけにこうしたかったのに」
 と、他人のバイクを蹴り倒す
 
我が、母校の裏、大坂真田山まで行こうと思うが、作者、力尽き。。。  
。。。 To be continued