「風立ちぬ」
を見てまいりました
堀辰夫の「風立ちぬ」とは
やっぱり全く違うと思いました
私は
堀辰夫の「風立ちぬ」も「菜穂子」も読んだのですけど
なんというか
違和感
みたいなものを感じていたんです
本を読むときのスタンスは人それぞれだと思いますが
私はやっぱり主人公やヒロインに
どれだけ共感できるか
をメインに本を読んでしまいます
そういった意味でいうと、村上春樹の作品なんて違和感だらけ(笑)
あの読後の心のモヤモヤがイヤであまり好きではありません
私は感情的で単純なタイプなので
冷静に客観的に本を楽しむということができないんですねぇ
で。
堀辰夫の「風立ちぬ」に対する違和感の正体は
宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見てわかりました
主人公の生活感が感じられるかどうか
これです
は?と思うかもしれませんけども(笑)
堀辰夫の小説の主人公は
結局セレブリティなんですよねぇ
結核になってサナトリウムに入る節子
彼女の家がセレブなのは別にいいんです
その時代だし
女性がお金持ちの父親に
お嫁に行くまで養われて生きる
これは多分普通だと思うんですけど
主人公も仕事をしないで
サナトリウムで一緒に暮らす
というのが意味が分からなかったんです
主人公は堀辰夫の分身であり、作家だから
時間が自由というのはわかるのですけど
それにしても。。。うーん。
あんなに本を書かなかったら、お金はどこから入ってくるんだろう
とか思ってしまって、ラブストーリーに集中できないんです(笑)
結局私は庶民だから
もしも私が
その当時生きていて
結核なら
サナトリウムに入るお金もなく
父親がどんなに働いても
母親がどんなに働いても
せんべい布団の不衛生な部屋で死んでいくような気がします(笑)
もしも恋人がいたとしても
きっと彼も毎日生きるために働かなくてはいけなくて
ずっと一緒になんていられないと思うのです
これが私の違和感の正体でした
映画が小説と違うのは
堀越二郎はゼロ戦の開発に日々奮闘しています
飛行機を作らないといけないから、
菜穂子と一緒に山で生活することはできない
とハッキリいうシーンがあります
これが夢を持って働く普通の若者の
まっとうな考え方ではないでしょうか
だからこそ菜穂子は名古屋まで
病をおしてまで会いに来たのではないでしょうか
それでも彼を支えたい
と思ったのではないでしょうか
などと
帰りの電車でずっと映画のことを考えていました
そして
気づいたのは
私は非常に現実的だということです(笑)
愛が無ければ人生に価値はないと思うけど
愛だけでは生きていくことはできない
私は
恋愛だけ満足していたら、他には何もいらない
などと
決して思うことはできないタイプの人種です
だからこそ
一生懸命働く男性に恋してしまうのかもなぁ。。。
けれど
堀辰夫自身も結核だったし、40代に亡くなっているので
人生の一瞬の光だけを切り取って小説にしているのかなぁ
などと
作家の人生についても深く考えてしまったりして。。。
今も
堀辰夫ファンは多いと聞きます
宮崎監督も
ファンだからこそ
この話をベースに選んだのでしょう
そう思うと
堀辰夫ワールドを理解できていない私の浅はかさが
自分の人間としての薄さのような気がして
少しさみしくなるわけです