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どれだけの眠れない夜を越えてきただろう。
最後の更新から七年以上経過してしまったけれど、取り敢えずブログを書いてみよう。

自分の不甲斐なさや幼さに歯を食いしばる事もある。街の移り変わりに寂寥感を覚える事もある。日々いつもの道に咲く花にも気付かず、疲弊した心で美しさを失った日々を過ごす。
遣る瀬無い気持ちを何かで誤魔化す夜だって、泪を堪えて笑う時だって、、、
それは、、、

決して苦しいわけではない
誰かが僕を待っている
愛しい景色が待っている
明日は明るい日
竹のようにしなる強さを探し
僕はまた歩く
もう忘れはしない
同じ轍は踏まない

過去に学び、愛を大切にしよう。
もっと優しくなろう。受け入れる気持ちを身に付けよう。
それは不条理と戦い続ける為に、そしていつか一人で立てるようになる為に。
だから今までありがとう。
そしてこれからもありがとう。
今、僕はここに居る。
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この日、心を捨てる決断をした。
しかし、無理な話だった。
でも仕方ない。そう思い込めるから。
僕の最後のステージは年末に代々木かな?
十一月にステージが二本、十二月に一本か。
やめるつもりはないけど、これから先の何年か、しばらくはもう出来ないだろう。
心も保てないだろうし。
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喜びを描いたままの最後の写真。
僕はこれを語る事無くこれから過ごす。
痛みにも似た季節を僕は迎える。
一人じゃない。でも一人だ。
かと言ってうらぶれる訳にはいかない。
いつか再開を笑顔で分かち合うために。

やらなきゃいけないことが多すぎるから
僕は死なないだけだろうけど。
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出逢いや別れを繰り返して
僕らは一歩ずつ
一歩ずつ強くなってゆく


上記は僕の唄のlyricの一部分だけど、実際本当にそう思うんだ。
出逢いや別れは人だけじゃない。洋服、食事、家具など。すべての存在するものに、それは言える。

先日、僕はレストランと出逢ってしまった。行きたかったフレンチレストランが休みだった。
そこで、違う店に歩いた。
向かった店は行く度に、貸し切りや定休日で、ふられ続けたイタリアンレストラン。
今回は食べられるだろうか?と思い馳せた胸の昂ぶりを必死に押さえて、、

到着し、すばらしい店と
歓びの味に舌鼓をした。
美しい盛り方もさることながら
他者を寄せ付けない勢いで
抜きに出たのはイタリアの北側の味だった
デザート酒も呑みおわり
帰りにシェフと話をしてもらった
イタリアでの話をメインに
たくさん貴重なお言葉を頂いた。

そこでシェフが「よかったら」と出してくれたのが写真のリキュールだ。
日本では見掛けないもの。
シェフがイタリアに行った時に買ってきたらしい。
出逢ってしまった。
今でも高鳴る鼓動を忘れないでいる。量も残り少ない。
次回イタリアに行くのは年明け。それまでに、また逢えるかい?
僕は一つ見聞を広げ、人生のRPGのlevelを一つあげて強くなった。
また逢いたい。
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今日は電車でミスしました。
乗る電車を間違えたのです。
全く以て恥ずかしい限りの話です。

時間に間に合うかどうかを心配し、それでも素敵な時間を楽しめた。
写真を自分の心の表現に出来た瞬間、僕は生かされていると感じた。

やれる限りを「力を抜いてしなやかに」
やっていこうと思う。

一度自分の心の均衡が崩れると、這い上がるのに時間が掛かる。
藻掻いてる時間が増えてけだるく過ごす事になる。

ここ何年か自分を楽させすぎたのだろう。
そうだよ。僕らはまだ三分の一程度しか
人生を歩いていない。
僕は人に支えてもらって生きている。

今、電車に乗ってるのだけれど、電車ってすごいね。
これだけ多くの「人間」って名のリアルなドラマを、運んで夢を乗せて駆け巡るだね。
ここにはたくさんの人が居て、それぞれのドラマがあるんだ。
そして愛も欲望も挫折も歓びも時を、他人と同じく形成している。
今なら自分に足りないものを探せる気がするよ。
そう感じた電車の中。
これから自分の進む道に「いってきます☆」
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ー泪は人がつくる、一番小さな海です-
雨の日は心が憂い軋む
心の泪と人は呼ぶ「雨」

僕の胸に青く揺らぐ街並も
程よく凛と響く
アスファルトにはねる音も
晴れ間を待ち侘びている
やまない雨はないからと
希望を持ちながら


雨の日は心が憂い軋む
心の泪と人は呼ぶ「雨」

いつか心も晴れる、かならず
それまでは強くあろう
痛みを覚える事が出来たから
人に優しく出来るのだから

雨の日は心が憂い軋む
心の泪と人は呼ぶ「雨」

幸せ解り合う為に
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光が纏う「気」みたいなものに触れる。
さすれば、開ける道が開ける。
なんて迷信擬いの話がある。
強ち間違いではないのが痛々しい事実だ。
心理学がそれを立証したのは言うまでもない話だ。

学問の中で、よく光と闇を善と悪のように示す。
宗教でも似たような事が多い。
問題があるならば、誰がどこに光を感じるか。
それは千差万別の話。一括りにして教えるものには
僕は光を感じない。
そうでしょ?千差万別なのだから。
否定も肯定も出来ない「光」の話。
未知の領域である。
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「おはよう」
それは不確かなもので、
何よりも的を得た確かなものである。
夜の情事が終わり、重なった心と体は
温もりを帯びたままで軽い安息を求め
相手の体温に溶けてゆく。

朝が二人の時間の締め括りを迎えるまで、
都会の隷従な喧騒から離れ微睡む。
睫毛に憩う朝日にウインクをして
二人の空間は別々の終わりとはじまりを迎える。


余りにも言葉にならない不確かな確証。
しかし、これ以上の説得力はない確かな感覚。
曖昧なんかではない、比べるものがない事実は。
一つ「おはよう」を重ねれば
心も体も深くなり、誰かを傷つけて
心力をへし折るまで気付きもしない。
戯言は聞こえなくなり、真実として
温もりとおはよう。を後世に引き摺ってゆく。
やられてみると理解する。
なんて理不尽な暴力なんだ。と…
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胸焼け。って知ってますか?
食べ過ぎたらよくある話し。
基本は「消化不良」
しかし、消化不良は心にもよくある事だ。

自分が一つ一つ「消化」して、それが出来たら次は「昇華」しなければならない。
それが出来なければ、消化不良だろう。

忘れるだけが消化ではない。
まして、そこに何かを庇うだけの
原動力があれば尚更である。

このぼんやりとした先には
何も解決していない、庇うだけの
時間が閉まってあるだけだから。

一年に一度の記念日をどう過ごすかは
矢張り、自分が決める大きな問題だろう。

突き付けられた事情に
真摯に向き合う事は
消化を助ける役割がある。
有意義にするか否か。
消化と昇華。
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自分にとって、嫌いな景色がある。
人は景色を目の前にして「綺麗」だとか
見た目だけに拘る。

大好きな人と綺麗なものを見たい。
外れてはないが、それが思い出として認識される以上は、記憶の問題であるだろう。
好きな人と花火を見た。ただそれだけで「あの時は…」など、感じるだろう。
風景は記憶。
感情がどうであれ、美しいかどうかの問題ではない。
それを好きになれるか、先に破滅するか。
所詮は我慢と忍耐の上に成り立つ。

綺麗なら好きになれるなら、逆に何が綺麗なのかの着眼点を知りたい。
俺はそんなものの上に、自分の歴史を刻みたくなんてない。