マイルス・デイビスはモダンジャズの帝王と呼ばれたミュージシャンだ

マイルスは1944年にデビューするが、40年代のマイルスは、チャーリー・パーカークインテットに抜擢されたり、のちのアルバム「クールの誕生」のノネット(九重奏団)のリーダーをつとめたりと注目を集めたが、技量については
「あんまりお粗末なのでオヤジのあとを継いで歯医者になることをいつも考えてた」
とマイルス自身が言うぐらいで、まだまだであったようだ

ただ天才チャーリー・パーカーの元で、いつも厳しいインプロバイズ(即興演奏)が求められたことはマイルスの演奏と音楽能力を確実に高めていった

そしてマイルスは、人生を左右する曲にめぐり合う
オレはモンクの“ラウンド・ミッドナイト”が大好きだったから、どう吹いたらいいか教えてもらいたくて、毎晩、この曲が終わるたびに「モンク、今夜はどうだった?」と聞いていた。奴はものすごく真剣な顔をして「間違っている」と答えるんだが、それが次の晩も、またその次の晩もずっと同じで、かなり長い間、この繰り返しだった…でもある日、ついに「そうだ、そうやるんだ」と言ってくれた。ものすごく嬉しかった…
(クインシー・トループ著 マイルス・でイビス自叙伝)

セロニアス・モンクが19歳のときに作った“ラウンド・ミッドナイト”こそがその曲だ
マイルスはこうして、ようやくモンクに認めてもらえるようになったのであった

しかし、50年代に入るとマイルスは、当時のジャズ・ミュージシャンの多くがとり憑かれたヘロインの麻薬地獄に嵌り、51年~53年まで、ジャンキーとして最悪の時期を送ることになる

そのマイルスが故郷のセントルイスに戻り、禁断症状をのりこえて魔境を脱したのは54年のことである
そして名盤『ウォーキン』を発表して、ようやくジャズ界に立ち戻ってきたのであるが、この当時はマイルスはもう過去の人という雰囲気であったという

こうした中、55年の7月15日~17日に行われたニューポート音楽祭がマイルスの重要な契機になる
当初マイルスの出演予定はなかったのだが、ディレクターのジョージ・ウェインが、『ウォーキン』を聞いて急遽決まり、最終日の17日にのみ出演した

このとき、オール・スターバンドをバックにマイルスは2曲目に「ラウンド・ミッドナイト」のソロをとった

オレがミュートで吹くと、みんな大騒ぎになった。あれは、すごかった。ものすごく長いスタンディング・オベーションを受けたんだ。ステージを降りると王様のように見られ、レコード契約の話を持っていろんな奴が押しかけてきた。…そのすべては、はるか昔、学ぶのに苦労したソロのおかげだった。
(クインシー・トループ著 マイルス・でイビス自叙伝)

そして押しかけてきたメジャーレーベル“コロンビア”から最初にだしたのが、「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」
実は「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」はモンクが作ったときの曲名だった
この曲に歌詞を作詞したバーニー・ハニゲンが「ラウンド・ミッドナイト」と曲名を変えてしまったのだ…



このときのマイルスの演奏はすごくリリカル(叙情的)で、当時の人々を驚かせたのはわかるような気がする
当時、こういう演奏をするジャズミュージシャンはいなかった…そしてそれは若いマイルスがモンクに認めてもらおうと努力した日々から生まれたものであった

人間、素直で純粋な気持ちでやったことは報われるものですなあ~(^^)