このブログ、前回の投稿からかなり時間が経過してました。。。
ただ、今回はどうしても自分の気持ちを文章に残しておきたいと
思い、更新することにしました。
本当は自分の感じたことを私の立場で赤裸々にここに書くことは
賛否両論あるかもしれませんが、自らの責任でこちらに残してお
くことが今大事なんだろうと判断しました。
サニーウイングはこの7月で事業開始後丸12年、13年目がス
タートしています。
平成22年からです。
その開設当初から共に頑張ってきた職員さんが今回、亡くなりま
した。しかも交通事故で。
心からご冥福を念じると共に、この数週間で何を感じたのか、ま
たこの今の気持ちを文章にして整理することで前に進んでいきた
いと思っています。
本当に驚きました。
6月最後の日曜日の朝、拠点の責任者から連絡があり、Oさんが
交通事故にあって病院に搬送されていると。
しかも職場の駐車場に車を停めて、ホームまで移動する際の、
横断歩道を渡っている途中に、前方から右折してきた車に衝突さ
れて打ちどころが悪く、意識不明の重体ということでした。
まさかと思いましたが、本人からの電話もないので、電話できな
い状態は間違いないんだろうけれども、あの場所で右折車にぶつ
けられて・・大きなけがというのが信じられなかった。
しかし、その数時間後にはご家族とも連絡が取れて、かなり厳し
い状態であることも知りました。
命が助かっても、元に戻って働くことができる状態はないだろう
とのことで。
・・・これを書いていてもまだ頭がクラクラします。
「母は今、頑張っているところなので母の力を信じている。回復
してくれることを祈っている。母はサバサバした人でこんなこと
で立ち止まってないで今やることをしっかりしないと、と昔から
言っていたので・・。きっと母は今もそう言うと思うので」とご
家族も仰っていたとのことです。
こんなことで立ち止まっていないで今やることをしっかりしない
と、、、まさにこういうことを口にする人でした。
きっと生き続けるために全力で頑張っていたOさんはその後10
日あまり戦っていました。
私は次の日からもこの横断歩道を通るたびにこれまで共にサニー
ウイングでやってきた色んなことが思い返されて、どうして彼女
だったのか、とか、あと1分遅かったらそんなおかしな運転をす
る人と遭遇することもなかったのにとか、そういう思いばかりが
心の中にありました。
Oさんは最初の関屋が開設して1カ月後に入ってきてくれました。
その頃の私は、本当に介護のことは何も分かっておらず、上には
立っているけれど、転職組のベテラン職員の人たちの言われるこ
とに右往左往、何が正しいのかの判断軸も持てず、さぞかし頼り
なかったことと思います。
Oさんは私の母とほぼ変わらない年齢で、おそらく彼女からみれ
ば30代半ばだった私は息子のように思っていたと感じます。
そういうことを口にしていたことも聞きました。
色んなことがありました。
どこの会社でもあると思いますが急に看護さんの体制が厳しくな
った時、本当に無理を言って厳しい勤務をお願いしました。
しっかり協力してくれました。
毎週の定例会議では容赦なく他の部署にも助言がありました。
それは時に行き過ぎな部分もあったかもしれません。
もう少し配慮して発言して、と私も感じてそれを伝えてもいまし
たが、でもいつもOさんが言うことはやっぱり正しかったと思い
ます。
年配の職員としての手本というか、職員としてこうあるべき、と
か礼儀や整理整頓、接遇、いつも言うことは正しかったですね。
意見が対立して、徹底的に話し込んだことも1回や2回ではない
です。何度も何度も、何時間も話しました。
またこちらからお願いしなければならないこともありました。
そしてどこの施設でもあると思いますけれど、他部署との意見が
一致しなくて、結構激しい議論になったり。
しかしそれはいつも利用者の方にどうすればいいケアができるか
という点での激しいやり取りでしたね。
そしてこれはサニーウイングの誇るべきところですが、決して私
達は仲良しクラブではないので誰もが仲が良くて、、なんてこと
は決してありませんし、人間だから好き嫌いもあるでしょう、
しかし、ここぞという危機の時の、一致団結してその問題に対し
て取り組む時には物凄いパワーがあります。
そしていつもその中心にはOさんがいました。
心強かったです。
特に感じたのは最近では2年半前にまだ新潟でコロナ陽性反応が
あまりなかった時に、うちの職員が1名陽性となり、地方でしか
も初期、色々な意味でピンチになりました。
いわゆる風評被害もありました。
その中で、支えて頂くご家族のお力もありましたが、やはり職員
が一致団結したからこそあの時の危機を乗り越えたという感覚が
あります。
館内で濃厚接触になられた方や職員にPCR検査がなされて、それ
が全員陰性であったときに、みんなであーよかったと心から安心
したのを覚えています。
その後で、皆が1つになって、乗り越えられたことをOさんもと
ても喜んでいました。
ここには書ききれない沢山の思い出があります。
それほど12年間というのは重いです。
何も特別視するわけではないですが、私にとっては本当に特にお
世話になった職員さんなのです。
10日あまり頑張って戦っておられたOさんでしたが、7日の七
夕の日に、亡くなりました。
それを知ったのは新聞です。
相手の運転手の人は逮捕されていますので事件でしたからその経
過という形で8日の朝刊にニュースになっていました。
こうなることはどこかで理解していましたが私自身、正直にこち
らに書きますが、物凄く大きなショックで涙が出ました。
特にご縁の深かった人は皆そうだと思いますが、なんでこんなこ
とに・・・とずっとそのことばかり考えて頭からそれが離れない、
そんな状況でした。
8日のお通夜の前に少しだけ最後の挨拶をさせて頂くことができ
ました。25人ほどでしょうか、特に深く付き合いのあった職員
さんが一緒にきてくれました。
人前で涙をすることはもうこの仕事を始めて、自分自身の立場も
あって、ほぼなかった私ですが、ご主人様の姿を見た時に、堰を
切ったように涙があふれてどうしようもなくなりました。
情けないことですが、自分をコントロールできませんでした。
そしてOさんのお顔をうかがったときに、さらにこみ上げる感情
を抑えることは難しかったです。
なんとも安らかな表情で、微笑んでいるようなお顔で、今の目の
前のことが、すべて嘘で、彼女が話始めるんじゃないかと思った
くらいです。
お別れの言葉を口にはできませんでしたが、心の中で伝えたこと
は本当に今までお疲れ様でした。ただただ悲しい、これだけです。
その次の日には告別式でしたので、もうOさんは旅立たれたわけ
です。
自分自身もここまで気持ちが動揺するとは思っておらず、また、
バタバタと動いている日々のふとした時に思い出し、本当に今回
のことが気の毒に思い、風呂に入っているときにも涙が出たりし
ました。自分をコントロールできてなかったです。
こういうこともここに正直に書くことで一度自分自身がしっかり
この事実に向き合いたいという気持ちです。
亡くなって約1週間が過ぎ、思い出すのは7月の中盤くらいで
契約期間が切れるので、コロナも落ち着いてきたし(その当時)、
これから趣味や旅行などに時間を使っていきたいと話をしていた
Oさんの姿です。
そんな話を何度もしてました。
これから、という時だったから尚更残念でたまらないです。
とは言っても、ご家族の言葉でもありましたように、私達には
本当に、こんなところで止まっていないで、やることをしっかり
やりなさいと言うに違いないです。
今、職員の中でもまだ動揺はハッキリ言って残ってます。
私がこの状態ですから。
ちょっと私もこういう状況だったので大事なことが抜けたりとか
この数週間、調子が出なかったのは事実です。
しかし、ここで止まっていることはOさんは望まないと思います。
月並みですが、残された私達はしっかり自分のやるべきことをや
る、そして私自身はサニーウイングでOさんと一緒にやってきた
ことをより花開かせて、さらに大きな価値を作っていく、これし
かないんだろうなと。
今日の文章は行ったり来たり、あっちにいったりこっちにいった
り・・お恥ずかしい内容でしたが、このタイミングで私の気持ち
を隠すことなく表すことが今は必要なんだろうと私自身の責任に
おいて判断しました。
(長文失礼しました)
Oさんのご冥福を心より念じ申し上げます。
本当に今まで有難うございました。
あまりにも重い12年間でした。
私自身は最初の気持ちを忘れないで、自分自身を高めてより社会
的価値を生み出せる人間に成長していきたいと思います。
本当にお疲れ様でした。
これから頑張ります。
また職員の人へ(読む人がいたらですが)。
ここで気持ちを入れて明日からまた頑張りましょう。
引き続きよろしくお願いします。
以上☆