Southern Californiaの短い冬が終わり、春の気配が近づいていた。
この時期の空気は涼しくて、気持ちがいい。
けれど、こんな季節は長く続かない。
僕は、この時期が好きだった。
その日の朝、僕たちはいつもより遅い朝食をとっていた。
「今日、天気いいね」
「どこか行くか?」
Anneは少し考えてから、顔を上げた。
「じゃあ、Huntington Library」
「久しぶりだな」
「ローズガーデン見たい。それからAfternoon Teaでしょ。そのあと芝生で昼寝」
一気に予定を決めてから、僕を見る。
「どう?」
僕は笑った。
「完璧だな」
「でしょ?」
朝食を終え、僕たちは家を出た。
車に乗り込み、Pasadena方面へ向かう。
窓を少しだけ開けると、春の風が車内に入り込んできた。
しばらく走ってから、Anneがふと思い出したように言った。
「そういえば、結婚してから初めてだね」
「何が?」
「Huntington」
そうだった。
恋人だった頃には、何度も来ている。
でも今日は、夫婦になってから初めてだ。
***
入場ゲートを抜けると、係員が笑顔で声をかけてくれた。
「Enjoy your day」
「Thank you」
Anneも小さく手を振る。
僕たちは、まずローズガーデンへ向かった。
春の庭園には、色とりどりの花が咲いている。
Anneは、入ってすぐに足を止めた。
「あ、見て」
僕もそちらを見る。
「この色、かわいい」
また歩き出す。
五歩ほど進んだところで、
「あっ」
また止まった。
「これもかわいい」
「Anne...進まない」
「だって、全部かわいい!」
僕は携帯を取り出す。
「こっち、見て」
Anneが振り向く。
笑っている。
その一枚が、その日撮った写真の中で一番好きなものになった。
ローズガーデンを出て、僕たちはゆっくり歩いた。
高い竹に囲まれた小道。
風が吹くたび、葉がさらさらと音を立てる。
そのとき、横の茂みからカルガモが一羽、ひょこっと出てきた。
その後ろには、小さな雛たちが続いている。
「Brew、見て」
「見てる」
「かわいすぎる」
「君の表現はかわいいしかないのか」
Anneが僕を見返した。
「Brewだって“女の子”“うれしい”しか言ってないじゃん。この頃」
「……」
確かに、その通りだ。
最近の僕は、娘のことになると語彙力がなくなる。
カルガモの親子は、僕たちの前を横切って、そのまま池のほうへ歩いていった。
「行っちゃった」
僕たちは、ゆっくりその後を追った。
たどり着いたのは、Lily Ponds。
水面が風に揺れている。
まだ春が始まったばかりで、蓮や睡蓮の季節には少し早い。
池の前のベンチに並んで座った。
何も話さなかった。
鳥の声。
水の音。
竹の葉が風に揺れる音。
しばらくして、Anneが、ぽつりと言った。
「...誰もしゃべらない」
僕は少し笑った。
そして、今日のメインイベント。
Rose Garden Tea Room。
白いクロス。
銀色のティーポット。
三段のスタンドには、スコーンにサンドイッチ、ケーキが並んでいる。
「来てよかった♡」
僕は紅茶を注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとう」
Anneはスコーンを手に取り、真ん中から割った。
「まだ温かい」
嬉しそうにクロテッドクリームをのせて、一口食べる。
目を閉じた。
「幸せ」
それだけ言って、もう一口食べる。
僕は紅茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
「私さ、あなたとここ来るの好き」
「知ってる」
「でも、なんで好きなんだろ」
僕も少し考えた。
「静かになるからじゃないか」
「……私が?」
「うん、珍しく」
「……そうかも」
そして、また紅茶を飲んだ。
窓の外では、春の光が庭を照らしている。
急ぐ必要はない。
今日は、二人の時間だから。
***
僕たちは庭をまた歩いた。
大きな木の下に、広い芝生が広がっている。
Anneは芝生の上に腰を下ろした。
「五分だけ」
「絶対寝るだろ」
僕も隣に座り、そのまま芝生に寝転がった。
空は青かった。
木の葉の隙間から、柔らかい光が落ちてくる。
風が吹くたび、葉が静かに揺れた。
Anneが僕の手を探して、そのまま握る。
僕も握り返した。
そのまま、仰向けで空を見ながら、ふいに話し始めた。
「私、Coronadoに帰ってもいいかな?」
突然の言葉に、最初は意味が分からなかった。
「帰るって、来週末とか?」
「違う…当分」
「当分?」
Anneは空を見たまま続けた。
「あなたには申し訳ない気持ち、すごくあるんだけど」
「……」
「ここにいると、働きたくなっちゃって」
「働きたくなる?」
「うん。お店に行きたくなるの」
それは、彼女らしいと思った。
「昼間、ヨガしたり子育ての本でも読んだりしてればいいんだろうけど」
少し笑った。
「性格的に……無理で」
「それは...そうだな」
「だからCoronadoに行けば、嫌でもゆっくりできるかなって」
そこで、僕はようやく意味を理解した。
「もしかして...そのまま、出産したい?」
Anneは少し気まずそうに目を逸らした。
「あ……うん。ママもいるし。あなたにも負担かけなくていいかなって」
「負担だなんて、思ったことない」
「知ってる」
Anneはそう言って、また空を見た。
僕に遠慮しているわけじゃない。
僕が寂しがることを知っているからこそ、言っている。
「……いい?」
Noなんて、言えなかった。
合理的に考えれば、答えは決まっていた。
実家で母親と一緒に過ごしたほうがいい。
たぶん、それが一番いい。
僕の気持ちは、その次でいい。
「わかった」
Anneが少しだけ笑った。
「……ごめんね」
「大丈夫」
「ありがとう」
Anneは目を閉じた。
気づけば、僕も眠っていた。
目を開けると、空の色が変わっていた。
Anneはまだ眠っている。
頬に、小さな葉が一枚ついていた。
僕はそっと手を伸ばして、それを取る。
起こさないように、顔にかかった髪を耳にかけた。
寝ているAnneを見ながら、さっきの話を思い返す。
寂しい。
今までで、一番そう思った。
彼女がいなくなるわけじゃない。
Coronadoに帰るだけだ。
会おうと思えば会える。
電話だってできる。
それでも。
僕にとっては、初めてだった。
Anneがいない家を想像すること。
「Anne」
「……ん?」
Anneが目を開ける。
まだ眠そうな顔で、僕を見る。
「帰ろう」
「うん」
Anneは目をこすりながら起き上がった。
帰り道。
夕方の庭を、二人でゆっくり歩いた。
「家帰ったら、映画見よう」
「ああ」
「何見る?」
「Anneが決めていい」
「じゃあ、えーっと、Good Will Hunting」
「僕の好きなやつじゃないか」
「たまには付き合う」
少し歩いてから、Anneが言った。
「あなたと一緒なら、それだけで一番幸せ」
「...僕もだ」
Huntington Libraryの庭を、僕たちはゆっくり歩いた。
春の夕暮れは、思っていたより早く夜へ向かっていた。
それでも僕たちは、急がなかった。
