その後、Miaにいろいろ話しかけられたけど、あまり覚えていない。
気づいたら家に着いていて、シャワーを浴びていた。
ベッドに座る。
部屋の灯りは、ベッドサイドの小さなランプだけ。
シャワー上がりの髪から、まだ少しシャンプーの香りがしていた。
Anneは携帯を両手で持ったまま固まっていた。
時間は23時02分。
遅い?
いや、でも日曜日。
しかも、“Text me”って言ったのは向こうだし。
でも。
(なんて送ればいいの!?)
一度入力して、消す。
“Hi”
消す。
“Hey Brew”
消す。
短すぎる。軽すぎる。なんか違う。
枕に顔を埋めて、小さくうめく。
「うわあああ……」
恋愛映画の中では、みんな自然にメッセージを送っているのに。
現実は、たった一文がこんなに難しい。
もう、考えるより送ったほうが早い。
意を決して、メッセージを打つ。
-----It’s Anne. Castaway.
送信。
既読はまだつかない。
Anneはそのまま携帯を見つめて、ゆっくり後ろへ倒れ込む。
天井を見上げる。
(送っちゃった……)
心臓がずっと忙しい。
外では遠くを走る車の音だけがしていた。
携帯が震えた。
Anneは飛び起きる。
画面には、たった数秒前の返信。
-----Good.
Makes sense I couldn’t find you at Green Gables ;)
-----This is Anne. Anne of Castaway lol.
数秒、意味が入ってこない。
そして。
「……っは!?」
声が漏れる。
そのまま顔を覆ってベッドに倒れ込んだ。
「なにそれ反則でしょ……」
朝6時12分
Burbankの空はまだ、青みがかった灰色だった。
Anneは眠そうな顔のままCastawayの鍵を開ける。
カラン。
誰もいない店内に、ドアベルだけが響く。
「……ねむい」
ほとんど眠れていない。
携帯を置いては見て、また手に取って。
Brewとの短いやり取りを、何度も読み返していた。
思い出すたびに顔が熱くなる。
「だめだめ。仕事は仕事」
頬を軽く叩いて、店に入る。
朝のCastawayを起こす時間。
エスプレッソマシン。照明。焼き菓子ケース。
そして、冷蔵庫の奥から取り出すベイクドチーズケーキ。
表面はきれいなきつね色。
中央の小さな割れが、むしろ愛しい。
「よし」
ナイフを入れると、しっとりと沈む。
チーズとバニラの香りが、静かな店に広がった。
Today’s Pastry
Baked Cheesecake
小さく星を描き足す。
「今日もがんばろう」
気づけば夜。
20時45分。
閉店15分前のCastawayは静かだった。
ジャズだけが低く流れている。
誰も来ない。
「……もう閉めようかな」
エプロンの紐に手をかけた、その時。
カラン。
ドアベルが鳴った。
入口に立っていたのは、少し疲れた顔のBrewだった。
一瞬、呼吸が止まる。
疲れていたはずなのに、視界が急に明るくなる。
でもそれを隠すように、Anneは肩をすくめた。
「お客様、ラストオーダーは過ぎましたよ」
Brewは笑った。
「ごめん。仕事がやっと終わって」
髪を軽くかき上げる仕草。
「もしよかったら、まだやってるカフェ.... この近くだとCoffee Beanかな」
少し間を置いて、続ける。
「このあと、一緒に行かないか?」
そして、悪戯っぽく。
「Coffee Beanには、ラベンダーないけどね」
Anneは吹き出した。
「……閉店作業、手伝ってくれるなら考える」
「交渉成立?」
「まだ仮契約」
閉店作業は、思ったより楽しかった。
一人でやるはずの夜が、少し軽くなる。
食器の片付け。エスプレッソマシンの掃除。
そして明日のキーライムパイの準備。
「慣れてるの?」
「昔ちょっとね。コーヒー好きすぎてバイトしてた」
「それ、今役立ってる」
「さっきお皿一枚割ったの忘れた?」
笑い声が店に残る。
Castawayの空気が、少し柔らかくなっていく。
「じゃあさ」
Brewが車のキーを回す。
黒いFordのキー。
「まだ出会って1週間だし、現地集合にしようか」
Anneは少し笑った。
「見た目どおり紳士なのね」
夜の外に出る。
モスグリーンのBeetleと黒いFordが並ぶ。
街灯の下で、まだ始まっていない関係みたいに静かだった。
Coffee Bean
ソファ席に向かい合って座る。
Brewが言った。
「僕がCastawayの最初の常連になろうとしてたのに、Finalで来れなかった」
「え!学生なの?!」
Brewは吹き出す。
「違う。教える側」
「びっくりした……」
「そんな若く見える?」
「そこじゃない!」
「Pasadenaの小さなアートスクールで教えてる」
“Art school”。
その言葉が、妙に似合っていた。
「だからか」
「何が?」
「言葉がアートっぽいの」
Brewは少し驚いてから笑った。
「それ初めて言われた」
夜のCoffee Beanは静かだった。
誰にも干渉されない空気。
Brewはカップを持ったまま、少し真面目な顔になる。
「本当はもっと早く来たかった」
「忙しかったんだね」
「学生に囲まれて泣きそうだった」
「コーヒー必要なやつ」
「かなりね」
窓の外では、Burbankの夜が流れていた。
車のライト。遠いサイレン。
チェーン店特有の、少しだけ孤独に優しい空気。
「最初、たまたま通ったんだ」
「Castaway?」
「うん。Burbankで打ち合わせの帰り」
少し間。
「灯台みたいだった」
「灯台?」
「夜でさ。オレンジの光が見えて」
Brewは笑った。
「ここ、ちゃんとしてるなって思った」
“灯台”。
その言葉が、胸に残る。
「AnneはなんでBurbankに?」
「夢の途中の人が多いから」
映画。音楽。アニメーション。
「うまくいってない人も多いけど、でも誰も完全には諦めてない」
Brewは静かに頷いた。
「だからCastawayなんだ」
「途中で漂着できる場所」
その言葉に、返せなくなる。
深夜1時。
そろそろ店が閉まる時間。
「キーライムパイ、食べたかったな」
「また来る」
その言葉と同時に。
Brewが、Anneの手を取った。
一瞬、呼吸が止まる。
店員の「あと5分で閉店でーす」という声が遠くで響く。
現実が戻ってくる。
でもその前に、Brewは親指で軽く手の甲をなぞった。
それだけで。
今夜も、たぶん眠れない。
