昨日3月29日が聖金曜日でキリストが十字架に掛けられ、明日31日が蘇った復活祭と言うわけで今日はオペラシティーに、お守り代わりに聖書と磯山雅「マタイ受難曲」をもって、マタイ受難曲を聴きにいった。鈴木優人指揮、バッハコレギウムジャパン。私の周りには「趣味はマタイ受難曲」みたいな人がいるが、この曲は何十回、何百回聴いてもその都度感動する。ブランデンブルク協奏曲などもそうなのだが、マタイ受難曲は聴くものではなく見るものだと思う。管弦楽も合唱も左右に分かれて運動会の紅組、白組のように独立している。そう言う構成はスコアをし読めば一目瞭然なのだが、演奏会を見て改めて思い知らされる。DVDなどの映像では、演奏者をアップで映すことが多いのでこの構成が分かりずらい。

この曲を聴きながらいつも思うのはマタイ受難曲とは音楽なのか、信仰なのかと言うこと。当然両者は切り離せない。もし教会で奉献として演奏されれば信仰であり、演奏後の拍手は慎まなければならないし、有料で演奏会として演奏されれば音楽として拍手で終わることになる。しかしそれだけで単純に片付くものではない。例えばカラヤンの演奏は私にはあくまで音楽の美しさが優先された音楽としてのマタイ受難曲のように思える。他方何十年も前、ドイツ南部の小都市のカテドラル(大聖堂)で聞いたペーター・シュライヤーが指揮と福音史家を歌ったマタイ受難曲は単純にカテドラルで演奏されたからということだけでなく、信仰に重きが置かれていた演奏であったと思う。その街は南部であるからカトリックが優勢な文化圏であり、そこでプロテスタントの宗教曲を聞いたわけだが、カトリックとプロテスタントの断絶を超えた深みでの信仰が、音楽とうい表現形式で表されていたように思う。狭い祭壇前の空間に陣取った演奏陣と立錐の余地のない程満員の聴衆の空気感が自然に一つに調和していた。(日本の方がカトリック、プロテスタント間の亀裂は大きいかもしれない)