風の吹くまま歴史散歩

風の吹くまま歴史散歩

歴史ネタを散歩して、気に入ったことを紹介していきます。

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戦国時代前夜の、混沌とした関東平野。
扇谷上杉家の家宰、太田道灌が鷹狩りに出掛けた。
途中、急な雨に遭い、貧しい民家に蓑を求める。
しかし、その民家の娘は蓑を差し出すことなく、代わりに山吹の花を差し出した。
道灌は苛立ち、その場を去る。
後日、その山吹の花は、
『七重八重花は咲けども山吹の
みの(=実、蓑)ひとつだになきぞかなしき』
という古歌の引用であることを知る。
貧しさのあまり差し出す蓑すらないことを、娘は伝えようとしていたのだ。
道灌は深く恥じ入り、それ以来歌道に精進するようになったという。



「山吹の里」という民話だ。
徳川時代以前に江戸城を築いた太田道灌。
そのひととなりを示す代表的なエピソードである。
だが、この話の舞台がどこであったのかについては諸説あり、定まっていない。
埼玉県入間郡越生町、神奈川県横浜市金沢区六浦、東京都荒川区町屋、東京都豊島区高田などが挙げられている。
道灌の話は江戸時代の庶民によって親しまれ、しばしば落語の題材となった。
舞台が諸説あるのは、広く愛されたことを示すようだ。
その中で、豊島区高田を舞台にした話が特に印象に残ったので、紹介したい。
以下、「豊島の民話」(豊島図書館 郷土シリーズ・第2集)を基に再構成した。




むかし、高田村に紅皿(べにざら)と欠皿(かけざら)という仲の良い姉妹が住んでいた。
紅皿は近所でも評判の美女だった。
村人たちはいつも紅皿の話でもちきりだ。
しかし、欠皿についてはだれも噂をしない。
欠皿は顔が醜かったからだ。
紅皿の美貌を言えば、欠皿の醜さを際立たせることになる。
仲の良い姉妹だ。欠皿を悪く言うことで、紅皿に嫌われてしまわないか。
みんなそれを怖れていた。



「欠皿が草紙を読んでいる?」
村人は驚いた。本などという難しいものは、このあたりの村人にとって縁遠かった。
「紅皿の間違いではないか」
「紅皿と欠皿を間違えるはずはない」
「紅皿が教えたにちがいない。紅皿が欠皿に文字を教えたのだ」
こんな噂が拡がっていった。
紅皿と欠皿の父親は無学な百姓のはずなのに、紅皿がどうやって学んだのか、誰も疑問に思わない。ただ、紅皿はそこいらの並の娘ではない。文字を知り、歌を詠んだといって不思議はない。今に京から迎えが来るだろう。
誰も、紅皿が草紙を読んでいるところを見たことがないのに。



春がきた。
桜が散ると、小高い山すそから谷あいまで一面に山吹の花が一斉に咲き出し、あたりを明るくする。
ある日、太田道灌の郎党がやってきて、この地に鷹狩りにくることを告げた。
この間戦があったばかりだ。豊島氏を破った道灌を恨む残党が、ここにはまだまだいる。
鷹狩りとは名ばかりの残党狩りではないか。巻き込まれては大変だ。
人々は女子供に家から出ないようにと言いつけた。
紅皿と欠皿も、戸口を閉め、じっと静かにしていた。



郎党たちの喚声が時々聞こえてくる。狩りが始まったらしい。
しかし、やがてその声も次第に遠のいた。雨が降ってきたのだ。
「雨がうんと降れば、鷹狩りも早く切り上げるだろうに」
欠皿は祈った。
と同時に、外に出ている父を心配した。
「お父、濡れてないかな。蓑か笠を持っていってやりたいな」
「ダメよ、欠皿。うちには蓑も笠もないわ。」
ふと、戸が叩かれた。
「おい、開けろ」
父の声ではない。
開けると同時に男が入ってきた。髭が長い男だ。手に槍をもち、恐ろしい顔で背が高く声も太く大きい。
その次に狩衣姿の男が入ってきた。背はあまり高くないが、弓を持ち、太刀を佩いていた。
狩衣の男が入ると、最初の髭の男が跪いた。
この狩衣の男こそ、太田道灌だったのだ。



「蓑だ。蓑を貸してくれ」
髭の男はそう言った。
が、紅皿も欠皿も、恐怖のあまり押し黙ったまま反応できずにいる。
紅皿は一瞬、道灌と目が合った。
紅皿は慌てて目を逸らしたが、道灌は見つめ続けている。
「布をもってお屋形さまの雨をお拭いしろ」
髭の男は紅皿に命じてから、また、
「蓑…もないのか、ここには」
とこぼす。
それを聞いて欠皿はなんだかおかしくなった。
このあたりの百姓はみな蓑などつけない。
そんな贅沢をする余裕などないのだ。
男たち対して、怖いという感じはもうなくなっていた。



ふと、天啓のように閃いた。
欠皿はとっさに立ち上がり、裸足のまま外に駆け出した。
「どこへゆく」という声を背中に受け、ぬかるんだ泥も気にせずに走った。
右にも左にも山吹が咲いていた。
雨はその黄金色の花の上に激しく降り注ぐ。
欠皿は花の多い小枝を長めに折り、一目散に家に戻った。
欠皿が家に戻ると、紅皿は道灌の右腕あたりを拭っていた。
「姉さん」
欠皿は叫ぶ。紅皿は呆気にとらた。妹は何をしようとしているのか。
「姉さん、これを差し上げて」
気迫があった。紅皿は思わず受け取った。と同時に欠皿は髭の男に突き飛ばされた。
「なんだと?小娘…。誰がこのようなむさい花など!」
「差し上げるの!」
欠皿の叫びに紅皿は思わず膝をつき、山吹の枝を両手に捧げていた。
道灌は黙って、紅皿の美しい顔と、黄金色の山吹とを、交互に見た。
ずいぶんと長い間。
そのとき、外から別の男が入ってきた。
「お屋形さま、蓑がありました」
髭の男は、欠皿に向かって怒鳴った。
「蓑というものはこれじゃ!たわけが」
道灌は蓑を着け外へ歩き出したが、紅皿は先ほどと同じ格好のまま、山吹の花を捧げていた。
欠皿も突き飛ばされたままの格好だった。
最後まで、道灌は何も喋らなかった。
遠のいていくひづめの音を聞きながら、欠皿は思い返していた。道灌は、紅皿を何度も見つめ、醜い自分の方は一度も見なかったことを。



紅皿が江戸城に召されたのは、それからしばらくのことだった。
城に戻った道灌は、老臣に解かれて、ようやく山吹の花の意味を理解したのだ。
曰く、山吹の花はいにしえの歌の心を借りた。
七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞかなしき
「みの」は「実の」と「蓑」とを懸けた言葉である、ということだ。
「さすがは紅皿だ」
誰が伝えたのか、紅皿が山吹の花を捧げたことが、村人によって拡まっていた。
紅皿の美しさ、その歌ごころ、その物知り。いつのまにか、紅皿は偶像化されていった。
村人が思っていたとおりの紅皿だった。
彼女が由緒ある人に召されないはずはなかった。
村人は、自分たちが山吹の意味を知らなかったのを道灌になぞらえ、大いに満足した。
しかし、山吹の花を捧げるように機転を効かせたのは、実は欠皿であるということは、伝えられることはなかった。



やがて、道灌は主君の扇谷定正に謀られ、風呂で殺された。
紅皿は尼になった。村人たちがそうなるであろうと噂したとおりに。
村人たちの胸の中で、紅皿は、美しく清らかに笑っていた。
もしかすると、それは村人が一度も見たことのない、紅皿の美しさだったのかもしれない。
高田村にはくる年もくる年も、山吹の花が繚乱と咲き乱れる。
村人たちはその山吹に紅皿をいつまでも見ていた。
そして、欠皿のことは、誰も思い出すことはなかった。




この話は「常山紀談」という江戸時代中期に成立した逸話集をベースにしている。
「山吹の里」の話はいくつかあるが、このように、美人の姉の出世と、醜い妹の不遇を描いているものは珍しい。
世間は美しい話を持ち上げ、「あの人ならこうであるはずだ」と勝手に偶像化する。
その影で見えなくなってしまっているものがあるのに。

「欠皿」に、私たちはどれだけ気付くことが出来るのだろうか?





前回に引き続き、「時代の風音」からの引用を続ける。
この鼎談は1992年のことで、ちょうど宮崎駿の「紅の豚」が公開された年。
この作品の舞台となるのは言うまでもなくアドリア海、クロアチアの多島海なのだが、折りしもこの1992年頃はユーゴスラビア紛争が激化していた時期だった。

この時期の宮崎は、民族紛争についてかなり考えていたらしい。
「風の谷のナウシカ」は、劇場公開は1984年だが、漫画連載は1994年まで続いている。その作中で、当初は環境問題中心だったテーマが、次第に民族紛争問題に移っていくのがみてとれる。

そんな中、ユーゴスラビアのフィルムについて語っている。



【宮崎】
ユーゴにアニメーターがいっぱいいるのです。ヨーロッパではユーゴが人件費が安いものですから、それでヨーロッパでアニメーションを作るときはユーゴに下請けに出す。そのアニメーターたちとカンヌで会ったことがあるんですが、みんな大男でいい連中で、「おれのフィルム買ってくれ」と言うのですけどね(笑)。その連中いまどうしてるんだろうと思います。国内で戦争やる理由はまったくないんじゃないかな……。

【司馬】
ない。過剰民族感情というのは、悪魔ですね。

【宮崎】
彼らにビデオで観せてもらったフィルムに、ものすごく恐ろしいやつがあったのです。黒と白だけで色の塗られていないフィルムですけど、小さな漁師町で男たちが船に乗って漁に出かけて行くんです。海が真っ黒に塗ってある。魚たちがそれを見ていて、上陸してくる。魚がやたらに巨大なんです。それがウワーっと町にやってきまして、人間を網で全部さらって海に引きずり込んでいって、それでおしまいになってしまう、そういう映画なんです。どう受け取っていいかわからなかった。もう十年も前に見たフィルムですけど。

【堀田】
ブルガリアとかルーマニアとか、あのへんの小さい国のフィルム、映画というのは、観ていて、どうしても納得いかないものがなんぼでもある。わかりません。

ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダが玉三郎を演出した『白痴』をわざわざ観にいったけど、ドストエフスキーの『白痴』とも明らかに違う、なんだかわからないところがある。うまく説明できませんけどね。

【宮崎】
どうしてその映画ができたのかよくわからないのです。わからない部分が魅力的だったりしますが。

【堀田】
なんだかそういう小さい国の映画を観てると、こっちの理性がどうやら変になってくるんだ。

【司馬】
その話、ぶきみなほどおもしろいですね。そうですか。それは、いま起こっているユーゴなどの民族間紛争の問題にもかかわってくるかもわかりません。ちょっと俗なたとえを言えば、若い人に大人は「世間はそうじゃないぞ」といって言い返すじゃないですか。「お前みたいなことをしていたらだめだ。世間はもっと真面目に働いている」とか、「世間はみな勉強している」とか言うことによって、われわれの頭は安定するわけでしょう。

ところが小さい世界にいて、そこでフィルムを作ると、この世間というスタンダードから見たら、なんの意味だかわかんない。しかし、本人たちだけはわかっている。

たとえば、江戸時代の薩摩藩でフィルムを作るとしたら、ヘンテコリンなものを作るかもしれませんね(笑)。ところが薩摩人が明治維新で天下を取って明治官僚になり、旧旗本屋敷に移り住み、娘には旗本屋敷に勤めていた古い女中さんを雇ってきて古い山の手言葉を教えさせて、言語教育をする。そういうことで世間並みになるわけでしょう。ですから、広いところの影響を受けない頭というのは、他にわかりにくいことになりますな。

いい例かどうか知りませんが、古い薩摩の家中では"冷えもんとり"という奇習があった。死刑があるときくと、若い侍たちがひそかに刑場に近づいて、まっさきに死体の肝を取った者がえらいということになっていた。なぜえらいのか、他の藩の者にとって、説明されてもわからない。しかしそんな薩摩で当時映画があったとして、もしかれらが「冷えもんとり」を映画にして、江戸で公開したとしたら、江戸っ子にとってぶきみなだけで意味もわかりません。小さなおなじ精神文化の中の者だけが、えたいの知れぬカタルシスを感じてニタニタ笑っている……。

われわれ日本に住んでいるから、ルーマニアのフィルムがユニークに見える。ユニークという問題が、いまからの世界の大問題ですな。北朝鮮もユニークですし(笑)。だからユニークというのは、卑しい、いやらしい、つまらない、悪の言葉にしていかないとまずいんじゃないですか。フィリピンのイメルダだってユニークでしょう。ユニークだから困る。もうちょっと世間というのを知ってほしいんだけど。

【堀田】
司馬さんのおっしゃる世間というのは、おそらく普遍性ということでしょうが、その普遍性に照らしてのユニークさであってほしいものですね。





よく「異文化理解」と言ったりするが、ホントの異文化は理解なんて出来やしない。
私の大学時代のゼミの教授がよくおっしゃっていた言葉だ。

今の時代の戦争は「情報戦」だといわれる。
マスメディアを押さえたもん勝ちだ。
フセインの拘束だったり、カダフィーの遺体だったり、私達はテレビ映像を通じてそれを知り、一つの戦争が終わったことを、事実として認識する。
けれど、その背景にあるものを、どれだけ理解しているのだろうか。
知識として知ることで、理解した気になって、普遍性の中に取り込まれてしまっているだけ。
でもそれじゃ、解決にはならないんだ。




先日、三鷹の森ジブリ美術館を訪れた際に、館内の図書コーナーにて買った本がある。

「時代の風音」(朝日文庫)

堀田善衞、司馬遼太郎、宮崎駿の三氏による鼎談だ。

その中で、印象的だった箇所がいくつもある。
そのまんまの引用となるが、自分のメモの意味も込めて書き出してみたい。



【司馬】
昭和初年、多くの知識青年が左翼になったということを、後世の人たちはちょっと誤解すると私は思いますし、その理由がよくわからないでしょう。現場の感覚というのはわかりませんでしょう、同世代でないと。

【堀田】
そりゃわからないですよ。

【司馬】
たとえば太宰治さんが左翼に対してずっと後ろめたかった。太宰さんはならなかったために。石坂洋次郎さんもそうでしたね。『麦死なず』という作品に左翼の人が出てきて、奥さんを虜にしてしまう。なのに左翼でない自分はその相手の男に対して非常に後ろめたく思っている。この気分はありましたですね。時代の空気っていうのは後世には分かりにくいですな。

こんなに細かく話す必要のないことなのですけども、目の前に戦争中、上海で過ごされた堀田さんがおられるから、私は時代の空気というものについて詳しく語ったのです。

たとえば幕末に尊王攘夷、尊王攘夷、と言いつのった。それでは、世界じゅうと戦争するのかというとになる。できもしないことを槍と刀をふりかざして言いつのった。いざ幕府が倒れ、明治政府になるや、まっさきに開国する。

昔は井上聞多という名で走りまわってたのちの井上馨に、むかし同志だった人が面会にきて、「尊王攘夷、あれはどうなりましたか」とたずねると「あのときは、ああじゃなきゃ、いけなかったんだ」と答えた(笑)。つまりシュプレヒコールがそのまま真理として通用する時代があって、一夜明けて世の中が変われば、それはトイレの古新聞のように古ぼけてしまう。

【堀田】
それは、現場の空気というものはやはりひじょうにつかみにくいものです。
司馬さんは上海のことをおっしゃいましたけど、戦争が終わってから、上海で日本の人で民衆に殴られたりなんかした人は一人もいない。

【司馬】
当時?

【堀田】
ええ、逆に親切になってきた。私は武田泰淳に「なんでこうおれたちは居心地がいいんだろうね」(笑)という話をしましたら、武田は「いや、どうせ日本はもういっぺん来ると思っているからだよ」と言うんですね。

【宮崎】
権力を信用していないのですね。

【堀田】
長期のレベルで考えています。どうせ日本はもういっぺん来るに決まってるから、だからいま日本人に対して乱暴なことはしないようにしてるんだと。それはやはり現場の空気というものですね。








私達のような現代の20~30歳台の世代は、右翼だとか左翼だとか、いくら勉強しても感覚的に理解できない部分がどうしてもある。
それは決して、「政治や歴史に興味がない」からではない。
ゲバ棒を振り回して国会議事堂に詰めかけて騒いでいればよかった。
今はそんな時代とは違う。
経済発展だけを目指せば良いわけじゃない。
モデルとするべき明確な政治思想があるわけじゃない。
終身雇用制は崩れ、自分の定年退職後に、年金が貰えるなんて誰も思っていない。
「貧しくてもなんとかやっていけた」時代じゃない。
急速に成長したFacebookやTwitterなんかのSNSツールを使って、横の繋がりから社会に働きかけようとする。
上手くいくかどうかわからないけど、そうやって、手探りで自分の生き方を探してる。

それが、今の世代にとっての「現場の感覚」だと思う。
おそらくこの感覚も、上の世代、あるいは後世の世代にも、伝えることは難しいんだろう。







イタズラして、ツノを立てた母ちゃんに怒られる。
泣きながら家を飛び出した。
だけど次第に、日は暮れ、カラスもカアカアと鳴き出す。
寒いし腹も減ったし、家に帰ろうか。
帰ると、心配して泣きじゃくった母ちゃんに、
「どこほっつき歩いてた」と、
抱きしめられた。

そんな思い出を、誰もが持ってるのではないか。


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都電荒川線「鬼子母神前」を降りて、
巨大なケヤキを横に参道を進む。
そこに「鬼子母神堂」はある。

コンクリート舗装や石畳があまりなく、
茶色い土がむき出しでデコボコした境内。
樹齢600年を超える巨大な公孫樹。
その周りを、京都伏見稲荷の千本鳥居の様に
赤い鳥居が立ち並ぶ。
そして参道脇の小さな駄菓子屋。

ここにもし、ベーゴマやメンコで遊ぶ子供達がいて、
三輪オートが走っていたら、
ホントに「三丁目の夕日」の世界だ。
それほどまでに、ここの空間だけが、
古い時代のまま残されている。

どうしてなのかは知らないけど、
この「鬼子母神」が、子育てや安産のカミサマ
だからということは、無関係ではないだろう。


鬼子母神には、こんな謂れがある。


その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。

お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。
その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、
「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」
と戒めました。

そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。

当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い と尊称しております。

鬼子母神ホームページ(http://www.kisimojin.jp)


他人の子供を食らう母親という設定自体が、
かなりエキセントリックだと思うが、
我が子を思う気持ちというものは、
古来から変わっていないらしい。

最近の親は、自分の子ばかりを偏愛して、
他人の子を、愛したり叱ったりすることがなかなか出来ない。

ホントかどうか知らないが、昼のワイドショーで
コメンテーターが言ってそうなセリフだ。
でも、決して、「昔は良かった」というわけじゃない。
2000年以上前から、母親は同じような悩みを抱えていたわけだ。
そしてその時代ごとに、
「最近の親はなっちょらん!」
なんて批判されてきたんだ。
でも、そのままでいいわけじゃない。
過ちを犯しても、人はそこから立ち直らなくてはいけない。

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「鬼」という字に点がついていないことことも驚いた。
文字コードとして登録されてるのか?
印刷業者はどう対応してるのか?
IT産業に携わる者として、そんなことばかり気になってしまうのだが。

ツノがなくなっても、ベースは「鬼」なわけだ。
「鬼」にならなくては、子育ては出来ない。
でも行き過ぎちゃいけない。
この「鬼」の字に込められた思いを、忘れたくない。
その思いが、いつでも子供が遊べるような、
この鬼子母神堂の空間を作り出しているのだと思った。


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自分の子が可愛くて堪らない。
他の子を蹴落としたいほどに。
愛情の深さ故に、母親は鬼にもなる。
この愛情の深さには、正直言って男は勝てない。
やっぱり男は、妻に対して、自分を愛してもらいたいのだ。
自分の子を蹴落としてでも。
「母は強し」である。

母ちゃんのツノの材質は「無償の愛」そのものだ。
イタズラすると、消えたツノがまた生えてくるぞ。









牛乳の中の蠅、黒白が わしには解り、
衣裳を見れば 人間が わしには解り、
お天気が良いか惡いか わしには解り、
林檎の木で林檎の味が わしには解り、
樹脂を見て その樹が わしには解り、
全てが同じである時に わしには解り、
働き者だか怠け者だか わしには解り、
わし自身の事の外、何もかもわしには解る。

(中略)

選者の君よ、要するにあらゆる事が わしには解り、
顔色の艶々しいのも青いのも わしには解り、
全てを亡ぼし尽くす「死」も わしには解り、
わし自身の事の外、何もかもわしには解る。

『零細卑近事のバラッド』(ヴィヨン全詩集 / 鈴木信太郎 訳 / 岩波文庫)



映画「ヒミズ」を見てきた。
主演の染谷将太と二階堂ふみの、鬼気迫る演技に圧倒されっぱなし。
お互い本気で殴り合ってるし、
泣きながら叫びながら、
二人の個性がぶつかり合う。
こんな演技、今まで見たことがない。
大袈裟じゃなく、本気でそう思った。

とにかく、映画館で一人で泣いて、
エンドロールが終わっても暫く立ち上がれない自分がいた。

映画の本編の内容については、
その他詳しいレビューを書いたブログの方に譲るとして……。



作中で茶沢景子(=二階堂ふみ)が朗読する詩がある。
それが、冒頭に挙げた詩だ。
作中ではもっと易しい日本語訳だったのだけど、
手に入れた岩波文庫版がこれだったので、
こちらを掲載することにした。
古谷実の漫画原作には全くない。
この詩を、東日本大震災直後の実際の瓦礫のなかで読み上げるのだ。





ヴィヨンという人は、中世のフランス人。
15世紀の英仏百年戦争の混乱の中で生まれた。
パリ大学を卒業するが、教会での喧嘩から司祭を殺してパリから追放される。
国王の赦免状を得るも、窃盗事件に参加。
その後放浪の生活を続け、この間に多くの詩を残している。
王侯貴族の保護を受けたり牢獄に繋がれたりしているが、遂に絞首刑を宣告される。
控訴の結果、どうやら赦されるのだが、
その後の記録が残っていない。



経歴を調べれば調べるほど、
この人の生き方はいったい何だったのだろうか、
と思わざるをえない。
殺人や窃盗などの記録だけを見れば、
全く、ろくでもない生き方なのだが、
その時々でヴィヨンは多くの詩を残している。
その言葉が妙に生々して、現代の私たちにも共感を与えるのである。



今回の詩についてもだ。
大人になれば、知識が増え、世間を知る。
でも、最終的に、自分という人間が最期まで一番分からない。
映画の中でも、
「自分は一体誰なんだ?」と喚きながら
犯罪を犯そうとする人々が幾人も出てくる。
全く身勝手な理由なんだけど、
でも、彼らをむやみやたらに否定できなくなるのだ。



最悪の状況に追い込まれた際に、
主人公の住田祐一(=染谷将太)は、数ある選択肢の中から、
自ら最悪の選択肢を選ぼうとする。
その時に、周りに居てくれる人がいるか。
そして、そんな彼に対して、いったい何が出来るのだろうか。




私はまだ、ヴィヨンの人生を詳しく知らない。
でも、園子温監督がこの詩を選んだ理由が、
何となくわかる気がする。



ヴィヨンの周りには、どんな人がいたのだろう。