3月は 会社の先輩のおうちでの女子会
で始まりました。全員40超えてますが。皆様 おひな様気分
。
そして、この先輩のおうちで 一週間弱の共同自宅待機をすることになるとは この時は思いもよりませんでした。昨日から私は自宅に戻って、おかげさまで震災前と相変わらない生活に戻っております。
ご心配頂いた皆様、家族、安心してくださいね。
おかげさまでありがとう。
私と同じように、助かった命がたくさんあると思います。そのどの方に聞いても、助けていただいたとしか思えないのです。助かった命の重さをちゃんと自覚するために、そして、どんな命も一人では生きていけないことを自覚するために、この記事は、私自身の記録として書くことにします。
3/11 R45。宮古市内入り口で 14:46 携帯の地震警報が鳴り、横道に停車する。地震発生。大津波警報がけたたましく鳴り響く中、工事中のおじさんたちは作業の手を止めない。R45を通る車も止まらない。市街地まであと数百メートルという手前で高台に入り コンビニの横で ラジオをつけ待機することにする。商談予定だった美容室が気になったけれど、どうか、皆様避難していてほしいとだけ願う。来週の宮古の予定について先輩にメールしながら。ここからは 街の様子が見えない。
その後、宮古市内の取引先、上司、宿泊予定だったホテル、誰とも携帯がつながらなくなる。みんな無事ですように。そして、携帯は圏外に。PCのネットも繋がらない。
18:00過ぎには真っ暗に。停電は一時的なものでも、局地的なものでもないらしい。真っ暗なコンビニに、ポツリぽつりと人が入っていき、袋を下げてくる。盛岡に2時間かけて移動しても停電なら、ここから動かないほうが良いのかも…ひとまずコンビニに向かう。
店内に2名ずつ入れてくれて、買い物をさせてくれた。並んでいる間、市街の様子を見てきたという方に聞くと、磯鶏(目的地のひとつ)のあたりの線路は 流された家財道具などで埋まっているとのこと。
ランタンの明かりと 計算機でレジをしてもらい、ここで一晩過ごす決意をする。
ラジオは、県の北部の港町で数件の家屋が津波に流されたとのこと。三陸は津波の訓練が行き届いているのだから、そうそう被害は大きくならないはず。
その後、地震の5分ほど前通過してきた山田町が壊滅状態。仙台市若林区に200~300人の遺体。昨日居た気仙沼で大機規模火災が発生… どうか、このすべてが誤報であってほしい。
ネット、171、公衆電話。すべてトライするが繋がらない。
翌日の移動を考え暖気を抑えると、車中は寒い。空の星が、今まで見たことがないほど、見事に透き通って輝いていた。
上の写真は 3/12 早朝6:00。
宮古市内の得意先が気になり向うも、市街に入る道路はすべて立ち入り禁止。後ろめたい気持ちで盛岡に向けて出発した朝。雪で凍りつき、靄が覆う。何が起こっているのか、理解したくなかった。怖いほど静まり返った R106。
5kmほど走ったところで父からの電話がつながる。「よかった!!!」。ガソリンが仙台まで持たない。秋田の実家に帰ることも考え電話を切る。途端に、寝ずに電話をかけ続けてくれていた履歴がどっと入ってきた。
上司に連絡すると会社のみんなは全員県外に出張中。無事とのこと。よかった。
2時間後、盛岡市内も停電で信号停止。ガソリンスタンドも休み。しかし通行する車すべてが事故もなく、10:40 実家に到着。実家も停電、断水だったが、とにかく 人がいてくれる。心配してくれる人がいる。うれしかった。
私は助かったんだ。
19:00電気はまだ戻らないが、汲み水とガスがあるのでろうそくの明かりの元、早めの夕食をとる。
19:40食事後すぐに、電気が戻り家族と大笑い。
しかし、すぐにつけたテレビの画像で、現実を初めて目にした。おととい出発してから通ってきた、南三陸、気仙沼、昨日の朝宿泊して、新製品が気に入っていただけなかった大船渡、どんなに商談しても話が平行線だった釜石、陸前高田。取引先に会えなかった宮古。
そして、仙台港、塩釜、女川、石巻。
どこも とても大切な人が住んでいる町なのに。大好きな人が住んでいる大好きな町なのに。
安否確認はなかなか取れず、つけっぱなしのテレビには訪れた町々のありえない姿ばかりが映り続けた。
結果的に実家で3日間待機することになり、仙台に戻るまでの間、営業車で移動の私は、水・食料・燃料の調達。現実をどうやって受け止めていこうか。家族の援助がなければ、きっと私はこの時点で心折れていただろう。

